佐伯悠人(さえきゆうと)は、小さい頃からパンが好きだった。
いや、正確に言えば、パンそのものよりも「パンに塗るバター」が好きだったのだ。
トーストが焼き上がるたび、ナイフで四角いバターをすっと切り取り、表面にじゅわっと溶け広がる様子を見るのがたまらなかった。
香ばしい匂いが部屋に広がり、ほんのり黄金色に染まるその姿に、悠人は毎朝小さな幸せを見つけていた。
大学を卒業し、都内の会社で働き始めてからも、その習慣は変わらなかった。
忙しくても、朝は必ずパンとバター。
スーパーや輸入食品店に立ち寄っては、新しい種類のバターを試すのが何よりの楽しみになっていた。
塩気が強いもの、クリーミーでミルク感が濃いもの、発酵バターの独特の香りを持つもの……。
気づけば冷蔵庫の一角は、小さなバターのコレクションでいっぱいになっていた。
そんな悠人にとって転機となったのは、ある休日のことだった。
ふらりと立ち寄った下町の小さな商店街で、「手作りバター体験」と書かれた張り紙を見つけたのだ。
古びた喫茶店の奥にあるスペースで、地元の牧場から仕入れた生クリームを瓶に入れ、ひたすら振り続けるという単純な体験。
子ども連れが多い中、悠人は一人で参加してみた。
振り続けるうち、瓶の中の液体が次第に固まり、やがて黄金色の塊が現れた瞬間、悠人の胸は高鳴った。
「ああ、自分の手で作れるんだ」と思った。
味は市販品より素朴だが、牛乳の甘みとコクが濃厚で、パンにのせると不思議なほど幸福感に満ちていた。
その夜、悠人は考え込んだ。
仕事は忙しく、安定していたが、心から熱中できるものではない。
だがバターを作るときのあの高揚感は、久しく感じていなかった喜びだった。
もしかすると、自分の人生は「バター」で変えられるのではないか。
数か月後、悠人は会社を辞め、地元に近い郊外で小さな工房を借りた。
最初は周囲から心配された。「バターで生計が立つのか」と。
けれど彼は一歩ずつ進んだ。
牧場を回って牛乳を仕入れ、試行錯誤の末にオリジナルの発酵バターを完成させた。
ハーブを練り込んだもの、ほんのり甘いバニラ風味、ワインに合う濃厚なタイプ……。
少しずつ口コミで広がり、ネット販売も始めた。
やがて工房には人が集まるようになった。
パン職人が試作用に買いに来たり、料理好きの主婦が友人に配るために予約したり。
ある日、近くの小学校から依頼があった。
「子どもたちにバター作りを教えてほしい」と。
悠人は笑顔で引き受けた。瓶を振る小さな手、目を輝かせる子どもたち。
その姿に、数年前の自分を重ねた。
バターはただの食品ではなく、人と人をつなげる魔法のような存在だと悠人は気づいた。
パンの上で溶けて広がるように、心の距離もふわりと近づけてくれる。
ある日、工房の前で立ち止まっていた若い女性がいた。
彼女はフランスでパティシエ修行をしてきたという。
「あなたの発酵バターでクロワッサンを焼いてみたいんです」と瞳を輝かせて言った。
その出会いはやがて共同開発につながり、新しい商品が次々と生まれていった。
二人は互いに刺激を受け合いながら、工房をさらに賑やかな場所へと育てていく。
気がつけば、悠人はもう「ただバターが好きな人」ではなかった。
好きという気持ちが道を切り開き、人と人を結び、未来を描く力になっていたのだ。
今日も工房の扉を開けると、甘くて香ばしい香りがふわりと漂う。
悠人は笑みを浮かべ、静かに思う。
「やっぱり、人生はバターみたいにあたたかく、豊かに溶け広がっていくんだな」と。