泡の向こうの記憶

面白い

カシュッと栓を抜いた瞬間、軽やかな音とともに細かな泡が立ち上がる。
弾けるその一粒一粒が、少年の日の記憶を呼び覚ますようで、和也は思わず目を細めた。
彼は三十歳を迎えたばかりの会社員。
仕事の帰り道、コンビニで炭酸飲料を買うのが小さな習慣だった。
ビールでもなく、エナジードリンクでもなく、ソーダ。
透き通ったガラス瓶に入ったクラシックなソーダを見つけると、自然と手が伸びてしまう。

なぜこんなにも惹かれるのか。
理由は幼い日の夏祭りにある。
小学二年生のある夏、彼は父に連れられて町内の祭りに行った。
屋台の焼きそば、金魚すくい、射的。
幼い心をときめかせる中、ひときわ印象に残ったのは、氷で冷やされたソーダ瓶だった。
ラムネのビー玉よりも少し大人っぽい雰囲気をまとい、淡い青色にきらめくその液体。
父は「一本、飲むか?」と声をかけてくれた。
初めて口にしたときの爽快感。
舌を突き抜ける刺激と、喉の奥で広がる清涼感。
夏の蒸し暑さがすっと遠のき、代わりに心の奥底まで澄んだ水が流れ込むような感覚。
それ以来、ソーダは彼にとって「特別な飲み物」になった。

高校生になっても、大学生になっても、その好みは変わらなかった。
部活帰りに友人とコンビニに立ち寄れば必ずソーダを選び、試験勉強の夜には机の横に缶を置いた。
恋人と過ごした夏の日も、海辺で片手にソーダを持ちながら笑い合った。
けれども、大人になるにつれて周囲の人々はビールやワインに移っていった。
居酒屋で乾杯をするとき、ひとりだけソーダを頼むと、時にからかわれることもあった。
「子供っぽいな」と。
しかし和也は笑って受け流した。
自分にとっての一杯は、単なる飲み物ではなく、心を満たす「思い出の鍵」なのだ。

そんな彼に転機が訪れたのは、ある秋のことだった。
出張先の小さな町で、駅前に古びた喫茶店を見つけた。
外観は昭和のまま時が止まったようで、窓際には色あせたソーダ水のポスターが貼られている。
引き寄せられるように扉を開けると、ベルがちりんと鳴り、奥から白髪のマスターが現れた。
「いらっしゃい。何にしましょう?」
メニューにはコーヒーや紅茶と並んで「特製ソーダ水」と書かれている。
迷わずそれを注文した。

やがて運ばれてきたのは、透き通るグラスに注がれた淡い水色のソーダ。
上にはバニラアイスが乗り、さくらんぼがちょこんと添えられている。
懐かしさと美しさに胸が高鳴った。
ひと口飲むと、思わず息をのむ。
どこかで味わったことがあるような、しかし新鮮な感覚。
「これ……昔、父と一緒に飲んだソーダの味に似てます」
そう呟くと、マスターはにっこり笑った。
「君のお父さんも、うちでよく飲んでいたのかもしれないね。開店して五十年になるから、きっとね」

その言葉に和也の胸は熱くなった。
父は数年前に亡くなっていた。
祭りで一緒に飲んだあの一本。
夏の夜の思い出。
その裏側に、こんな場所がつながっていたのかもしれない。
泡の向こうに、父の笑顔が浮かぶ気がした。

それから和也は、出張や旅行のたびに各地の喫茶店や専門店を訪ねては、さまざまなソーダを味わうようになった。
赤、緑、紫。
色や香りは違えど、炭酸の弾ける音を聞くたび、心は少年に戻る。
やがて彼は、自分でも小さな記録を残し始めた。
「全国ソーダ紀行」と題したノートには、飲んだ店の名前、味の印象、そしてそのときの気持ちが丁寧に書き込まれていく。
仕事に疲れ、悩む夜も、そのノートをめくれば泡立つ記憶が背中を押してくれる。

ソーダはただの飲み物ではない。
過去と今をつなぎ、人と人を結ぶ小さなきっかけだ。
ある日、マスターから「君もこの町でソーダを広めてみないか」と誘われた。
喫茶店の一角を借りて、彼自身が考案したオリジナルソーダを提供する企画だった。
和也は胸を高鳴らせながら応じた。
ミントを効かせた清涼感ある一杯、柑橘を合わせた爽やかな一杯……。
試行錯誤を重ね、ようやく完成させたオリジナルは、来店した人々に「懐かしい」「新しい」と喜ばれた。

グラスに弾ける泡を眺めながら、和也は思う。
「きっと、父もこれを見て笑ってるな」
ソーダが好きでよかった。
そう心から思えた。