甘やかな夢 ―ババロアの物語―

食べ物

美咲は幼いころから甘いものが大好きだった。
特に母が特別な日だけに作ってくれる「ババロア」は、彼女にとってごちそう以上の存在だった。
乳白色に透きとおるような艶、口に入れた瞬間にふわりとほどけるやさしい食感。
小さな頃の誕生日や、風邪をひいて食欲をなくしたとき、あるいは何かを頑張ったご褒美に、母は決まってその冷菓を用意してくれた。

大人になり、美咲は洋菓子の世界へと足を踏み入れた。
専門学校での厳しい実習、フランス菓子店での修業、膨大な仕込みと閉店後の片づけに追われる日々。
それでも、彼女が頑張れたのは「自分もいつか、あの頃母が作ってくれたような、食べる人の心を癒すお菓子を作りたい」という強い思いがあったからだ。

だが、現実は甘くなかった。
華やかなケーキやマカロンに比べ、ババロアは目立たない存在だった。
店のショーケースに並べても、客の視線は苺のショートケーキや濃厚なチョコレートケーキに奪われてしまう。
シェフからも「昔ながらで地味だ、今の時代には合わない」と言われ、商品として推すことも許されなかった。

それでも、美咲の心の中には、どうしても忘れられない味の記憶があった。
母のババロアを食べたときの、あの安心感と幸福感――あれこそが自分の原点であり、作り続けたい理由だった。

ある日、美咲は思い切って独立する決心をする。
小さなカフェを開き、そこで「ババロア」を主役にするのだ。
誰も注目していないからこそ、自分の工夫で輝かせたい。そう考えた。

開店準備は大変だった。資金はぎりぎり、店内も手作り感があふれる。
それでもショーケースの中央には、彼女の作った色とりどりのババロアが並んだ。
バニラと生クリームをベースにしたもの、苺やマンゴーのピューレを加えたフルーツババロア、抹茶やコーヒーの香りを忍ばせたもの。
見た目も透明感のあるグラスに入れて、宝石のように輝かせた。

最初の数日は、客足はまばらだった。
通りすがりの人が「懐かしいわね」と言ってひとつ買っていくだけの日もあった。
だが、一度食べた人が「口の中でやさしく溶ける感じが忘れられない」と口コミを広げ、少しずつ常連客が増えていった。

特に人気を集めたのは、母の味を再現したシンプルなミルクババロアだった。
見た目は地味だが、一口食べるとほっと心がほどける。
「なんだか、子どもの頃に戻ったみたい」「疲れがふわっと消える」――そんな感想を伝える人々の笑顔に、美咲は胸が熱くなった。

ある日、一人の年配の女性が店にやってきた。
彼女はゆっくりとショーケースを眺め、ミルクババロアを選んだ。
席に腰を下ろし、ひと口食べた瞬間、瞳が潤み「これは……若い頃、母がよく作ってくれた味にそっくり」とつぶやいた。
その姿を見て、美咲は確信した。ババロアには人の記憶を呼び覚まし、心を優しく包む力があるのだと。

やがて、美咲の店は「ババロア専門店」として評判になった。
派手さはないが、食べた人の心に残るデザート。
SNSでも「やさしい夢の味」として話題となり、遠方から訪れる客も増えていった。

忙しい日々の中で、美咲は時折厨房で立ち止まる。
冷蔵庫で冷やされ固まっていくババロアを見つめながら、胸の中で母に語りかけるのだ。
「お母さん、あのとき私に作ってくれた一皿が、今こんなに多くの人を幸せにしているよ」と。

――ババロア。それは決して派手ではない。
けれど、やわらかく人の心をほどき、記憶と記憶をつなぐ、不思議な力を持ったお菓子だった。