町の西側には、ゆるやかにのびる長い坂道がある。
地元の人たちは、それを「夕焼け坂」と呼んでいた。
夕暮れ時になると、坂の上から町全体が茜色に染まり、海の向こうまでオレンジ色の光が広がっていく。
それは、まるで世界が一度だけ息を潜め、時間が止まったかのような瞬間だった。
小学五年生の春、涼(りょう)は転校してきたばかりで、まだ町にもクラスにも馴染めずにいた。
放課後はいつも一人で遠回りして家に帰り、夕焼け坂の上で時間をつぶすのが日課になっていた。
ある日、坂の上でランドセルを背負ったままスケッチブックを広げる少女に出会った。
髪は少しだけ茶色く、目は夕陽の色を映して輝いている。
彼女は黙々とクレヨンを走らせていた。
「何描いてるの?」涼が声をかけると、少女はちらりとこちらを見て、小さく笑った。
「夕焼け。毎日色が違うんだよ」
その日から、涼は彼女と並んで坂の上に座るようになった。
彼女の名前は美緒(みお)と言った。
美緒は夕焼けを描き続けていて、ページをめくるたびに、濃い赤の日もあれば、やさしい桃色の日もあった。
「なんで毎日描いてるの?」と涼が聞いたとき、美緒は少し考えてから答えた。
「お母さんがね、夕焼けって『今日一日がんばった証拠』なんだって。だから、忘れないように残してるの」
その言葉は、涼の胸に深く響いた。
涼の母は仕事で遅く、父は遠くの町で単身赴任。
家に帰っても、話す相手は誰もいなかった。
だけど、美緒と見る夕焼けは、不思議と心を満たしてくれた。
夏休みが近づくころ、美緒は涼に提案した。
「ねえ、100枚集まったら一緒に空の下で展覧会しようよ」
「展覧会?」
「坂の上に並べて、夕焼けに見てもらうの。きっと夕陽も喜ぶよ」
そして、二人は約束した。
それからの日々、雷雨の日も、強い風の日も、二人は坂の上に立った。
ときには夕焼けが見えない日もあったが、その空模様も美緒は描いた。
「これも今日の空だから」と言って。
九月の初め、ついに100枚目の夕焼けが完成した。
絵を並べるため、二人は放課後すぐに坂へ行った。
スケッチブックから切り取った絵を、アスファルトにそっと並べる。
通りかかった人々が足を止め、「きれいだね」と笑顔を向けてくれる。
陽が沈みかけたとき、美緒は空を見上げ、涼に小さな声で言った。
「……これで終わりなんだ」
「終わり?」
「うん、来週引っ越すの。お父さんの仕事で」
涼は言葉を失った。
100枚集めたら一緒に展覧会――それは、美緒が町を離れるまでの残された時間を知っていたからこその提案だったのだと気づく。
沈む夕陽は、今日に限っていつもより大きく、赤く、滲んでいた。
涼は美緒の横顔を見た。
彼女は泣いていなかった。
ただ、目に映った夕陽が、少し揺れていただけだった。
「じゃあさ、またどこかで会ったら、その日も一緒に夕焼け見よう」
涼がそう言うと、美緒はうなずいた。
「うん。夕焼けはきっと、また私たちをつれてきてくれるから」
その後、美緒は約束通り、夕焼け坂を最後にもう一度訪れた。
絵の中の100枚の空が、茜色の風に揺れていた。
涼は一枚の絵を受け取った。
そこには、夕焼けと二人の小さな背中が描かれていた。
数年後、涼は大人になっても、夕焼け坂に立つとポケットの中のその絵を取り出す。
夕陽は変わらず、世界をやさしい色で包み込んでいた。
――あの日の約束は、まだ空の中で生きている。