祖母の家に行くと、いつも台所の隅に小さな急須があった。
深い緑色で、表面には細かいひび模様――貫入が走っている。
それは祖母が若い頃、嫁入り道具として持ってきたものだという。
取っ手は少し欠け、注ぎ口も丸みを失っていたが、祖母は「まだまだ使えるよ」と笑っていた。
小学生の頃、私はその急須で淹れたお茶が好きだった。
祖母は急須に茶葉を入れ、湯を静かに注ぎ、じっと待つ。
お湯の中で茶葉がふわりと広がり、淡い黄緑色がにじみ出る様子が、私はなぜだか魔法みたいに思えた。
湯呑みに注がれたお茶は、ほんのり苦くて、そして甘い。
祖母は「急須はね、人の手と心を映すのよ」と、よく言っていた。
意味はよく分からなかったけれど、その声と香りだけは心に残った。
やがて私は大人になり、祖母の家にもあまり行かなくなった。
仕事や友人との付き合いに追われ、急須でお茶を淹れる時間など、すっかり忘れていた。
そんなある日、祖母が倒れたと知らせを受けた。
急いで病院に駆けつけると、祖母は静かに眠っていた。
手を握ると、少しだけ力を返してくれたが、言葉を交わすことはできなかった。
葬儀が終わったあと、祖母の家を片付けることになった。
懐かしい匂いが残る台所で、私はあの急須を見つけた。
棚の奥で、薄く埃をかぶっている。
そっと手に取ると、掌にすっぽり収まり、土のぬくもりが残っている気がした。
なぜか、その場でお茶を淹れたくなった。
戸棚を探すと、古い茶葉の缶が出てきた。
封を開けると、少し湿気てはいたが、緑茶の香りがふわっと広がる。
やかんでお湯を沸かし、祖母がしていたように、急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ、じっと待った。
注ぎ口からこぼれるように湯呑みに落ちる緑色の液体を見ていると、不思議と胸が熱くなる。
ひと口飲むと、子どもの頃の記憶が一気によみがえった。
畳の部屋で祖母と並んで座り、お茶をすすりながら聞いた昔話、台所から聞こえる急須の蓋がかすかにカタカタ鳴る音……。
その日以来、私は毎朝、その急須でお茶を淹れるようになった。
忙しい朝でも、湯が茶葉に染みていく数十秒の間、心がふっと静まる。
お茶の香りが部屋に広がると、祖母の「人の手と心を映すのよ」という声がよみがえる。
おそらく祖母は、急須でお茶を淹れる時間こそが、人と人を結ぶやさしい儀式だと知っていたのだろう。
誰かのためにお茶を淹れることは、その人を思いやること。
だからこそ、急須には心が映る――。
先日、友人が遊びに来たとき、私は自然にその急須を取り出し、お茶を淹れた。
友人は一口飲んで「なんだか落ち着く味だね」と笑った。
私はその言葉を聞きながら、祖母が隣にいるような気持ちになった。
急須は今も少し欠けたままだ。
でも、その欠け目すら愛おしい。
これからもずっと、私はこの急須でお茶を淹れ続けるだろう。
湯気の向こうに、祖母の笑顔を思い浮かべながら。