春の匂いが漂う土曜日の朝。
空は透き通るような青色で、雲はまるでゆっくりと流れる綿菓子のようだった。
中学二年生の美咲は、ガレージに置かれた自転車の前で胸を高鳴らせていた。
去年の誕生日に両親からもらった、淡いミントグリーンのクロスバイク。
冬の間は寒さに負けてあまり乗らなかったけれど、今日は違う。
友達の悠斗と「隣町のパン屋まで行こう」と約束していたのだ。
「美咲ー、ヘルメット忘れないでよー!」
母の声に、「はーい!」と返事をしながら、自転車のかごに水筒と小さなリュックを入れる。
玄関を出ると、悠斗がすでに道路の向こうで手を振っていた。
彼の自転車は、真っ赤なマウンテンバイク。
どこまでも走って行けそうな頼もしさがあった。
「今日は最高のサイクリング日和だね!」
「うん、早く行こう!」
二人は並んでペダルを踏み出した。
家々を抜け、川沿いのサイクリングロードへ入ると、視界は一気に開けた。
両脇には菜の花が咲き誇り、黄色い絨毯がどこまでも続いている。
川面はきらきらと輝き、カモがのんびり泳いでいた。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
ペダルを踏むたび、体は軽くなっていくようだった。
「見て、美咲! あそこ、桜が咲き始めてる!」
悠斗が指差す先には、川の向こう岸に数本の桜が薄桃色の花をつけていた。
「あと一週間したら満開だね」
「そしたらまた来ようよ」
そんな会話をしながら進む道は、いつまでも終わらないでほしいと思えるほど心地よかった。
やがて、小さな丘に差しかかった。
自転車で上るには少しきつい勾配だ。
「よーし、勝負だ!」と悠斗が勢いよく立ち漕ぎする。
「待ってよ!」と笑いながら追いかける美咲。
ふくらはぎがじんじん熱くなり、息も上がる。
けれど、丘の頂上に着いた瞬間、目の前に広がった景色は、その疲れを一瞬で吹き飛ばした。
丘の下には、一面のチューリップ畑が広がっていた。
赤、黄、紫、そして白。
色とりどりの花が風に揺れ、まるで波のようにうねっている。
「わぁ……」
二人はしばらくその光景に見入った後、一気に坂を下った。
風が耳元でうなり、世界が流れるように過ぎていく。
胸の奥までスッと冷たい空気が入り、全身が生き生きとする感覚。
「サイコー!」と悠斗が叫び、美咲も「ほんとに!」と声を上げた。
坂を下りきると、目的のパン屋はすぐそこだった。
木造の小さな建物から、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「こんにちはー!」
ドアを開けると、店主の女性がにこやかに迎えてくれた。
ショーケースには、丸いクリームパン、こんがり焼けたクロワッサン、ベリーがたっぷり乗ったデニッシュ……どれも美味しそうで、二人は迷いに迷った。
美咲はチョココロネを、悠斗はソーセージロールを選び、外のベンチに腰掛ける。
「うまっ!」
口いっぱいに甘いチョコを頬張りながら、美咲は笑った。
「これ、絶対また来ようね」
「うん、次はもっと遠くまで行ってみようよ」
そんな未来の約束を交わしながら、ふたりはゆっくりパンを食べ終えた。
帰り道、川沿いの風景は朝とは少し違って見えた。
陽は傾き、菜の花の黄色が夕焼け色に染まり始めている。
ペダルを踏む足は少し疲れていたけれど、心は不思議と軽かった。
自転車に乗っている間は、嫌なことも不安なことも、すべて風が連れ去ってくれるような気がした。
家の前に着き、自転車を降りると、母が玄関から顔を出した。
「楽しかった?」
「うん、すっごく!」
その笑顔に、母も安心したように頷く。
夜、布団に入った美咲は、今日見た景色や風の感触を思い出していた。
自転車はただの移動手段じゃない。
新しい景色、新しい気持ちに出会わせてくれる魔法の乗り物だ。
「次はどこまで行こうかな……」
そう呟きながら、彼女は心地よい疲れとともに眠りについた。