赤いソースの記憶

食べ物

佐伯美咲は、昼休みになると決まって社食には向かわず、会社の近くにある小さな洋食屋「グリル山本」に足を運ぶ。
暖簾のように下がった赤いカーテンをくぐると、店主の山本が「いつもの?」と聞いてくる。
美咲は笑って「もちろん」と返す。
そう、彼女の「いつもの」はポークチャップだ。
トマトソースがたっぷりかかった厚めの豚肉は、外は香ばしく中は柔らかい。
玉ねぎの甘みと酸味の効いたソースが絡み、口に入れた瞬間、ふっと肩の力が抜ける――まるで家に帰ったような安心感。

美咲がポークチャップを愛するようになったのは、小学生の頃だ。
共働きの両親は平日は忙しく、夕飯は簡単なものになることが多かった。
だが、日曜日だけは父が腕を振るい、台所を支配した。
父の得意料理、それがポークチャップだった。
鉄のフライパンでじゅうっと焼かれる豚肉の音、トマトソースの鮮やかな赤、そして部屋いっぱいに広がる香り。
待ちきれず椅子に座っていると、父は「まだ早いぞ」と笑いながらソースを煮詰めていた。

しかし、高校二年の冬、父は急な病で亡くなった。
台所に立つ父の姿は、それきり消えてしまった。
母はその後、料理を作る気力を失い、食卓はコンビニや外食に変わった。
美咲も受験勉強に追われ、父のポークチャップの味は次第に記憶の奥に埋もれていった。

社会人になって二年目のある日、美咲は仕事で疲れ切っていた。
外回りからの帰り道、雨が降り出し、偶然見つけた「グリル山本」に駆け込んだ。
店内は昭和の香りが漂い、木のテーブルとカウンター席が温かい雰囲気を作っていた。
何気なく注文した「ポークチャップ」が運ばれてきた瞬間、美咲の胸に何かが弾けた。
湯気を立てるソースの赤、玉ねぎの甘い匂い、肉の焼ける香ばしさ――一口食べた瞬間、幼い日の食卓が蘇った。
父の笑い声、母の笑顔、窓から差し込む冬の日差し。
それらが一気に押し寄せ、気付けば涙が頬を伝っていた。
山本は驚きながらも、「味、しょっぱかったか?」と優しく聞いた。
美咲は首を振り、「いいえ、とてもおいしいです」と答えた。

それ以来、美咲は週に一度は必ずこの店を訪れるようになった。
山本は寡黙だが、料理の腕は確かで、ソースは毎回丁寧に作られている。
美咲は少しずつ、自分でもポークチャップを作ってみたいと思うようになった。
ある休日、山本に「作り方を教えていただけませんか」とお願いすると、彼は少しだけ眉を上げた後、「いいけど、覚悟はあるか?」と笑った。

ソース作りは想像以上に奥深かった。
玉ねぎを飴色になるまで炒めるには、じっと待つ根気が必要だ。
トマトソースの酸味を和らげるには、甘みと塩加減のバランスを探る。
豚肉は火を通しすぎると固くなるため、タイミングが命。
何度も試行錯誤するうち、美咲は気付いた。
これはただの料理ではない。
材料の一つ一つに向き合い、味を整え、丁寧に仕上げる過程は、まるで父が日曜日の食卓を作っていた時間そのものだ。

数か月後、美咲はついに自分のポークチャップを完成させた。
その日、母を家に招き、テーブルに皿を並べた。
母は一口食べて、しばらく黙っていた。
そして小さく、「お父さんの味だね」と呟いた。
美咲は笑いながらも、胸の奥が熱くなるのを感じた。

それ以来、ポークチャップは美咲にとって特別な料理であり続ける。
忙しい日々の中で、ソースを煮込みながら思い出すのは、父の笑顔と、温かい食卓。
そして、あの赤いソースが繋いでくれた、過去と現在の自分だ。