白の記憶

面白い

古いアトリエの奥、埃をかぶった木製トルソーに、一着のウェディングドレスがかかっていた。
長い年月を経て色はわずかにアイボリーへと変わっているが、胸元の繊細なレースや裾の刺繍は、まだ息をのむほど美しい。

佐倉美咲は、そのドレスを見上げて立ち尽くした。
今日、彼女は祖母の遺品整理のため、このアトリエにやってきたのだ。
祖母は生前、町の仕立て屋であり、特にウェディングドレスの仕立てを得意としていた。

「これ……おばあちゃんの?」
そっと手を伸ばし、生地に触れる。
シルクの感触は驚くほどなめらかで、まだ花嫁の息遣いを閉じ込めているかのようだった。

引き出しの奥から、一通の封筒が出てきた。
消えかけたインクで「美咲へ」と書かれている。
封を開けると、祖母の字でこう綴られていた。

――このドレスは、私の最初の花嫁仕事です。
戦後すぐ、布も糸も足りない時代に、一人の女性のために夜を徹して縫いました。
その花嫁は、笑顔で「一生忘れない」と言ってくれました。
それから何十年も、このドレスは色々な花嫁に貸し出され、そのたびに私は直しを加えました。
もしあなたがいつか結婚するとき、着たいと思ってくれるなら嬉しいです。
そうでなくても、このドレスは“物語”として残してほしい。
愛する人を思う気持ちは、時代を超えて同じだから。

美咲は手紙を握りしめ、静かに目を閉じた。
彼女はデザイン事務所で働く忙しい日々を送り、結婚という言葉からは長らく距離を置いていた。
恋愛はしたけれど、仕事を優先し、別れを選んできた。

だが今、このドレスの前に立つと、祖母が紡いだ“誰かを想う時間”が胸に染み込んでくる。

翌週、美咲は地元の歴史資料館を訪れた。
そこで偶然、展示スタッフの青年・悠人と出会う。
彼は美咲が持参したドレスに目を輝かせ、「これ、もしかして“巡る花嫁ドレス”じゃないですか?」と興奮した。

悠人の説明によれば、このドレスはかつて町で有名だった。
結婚式を挙げられない家庭の花嫁たちに無償で貸し出され、何十人もの女性を送り出してきた“幸せのドレス”だという。

「そんなに……」
美咲は胸が熱くなった。
祖母の話はほんの断片だったのに、このドレスには町中の想いが宿っている。

悠人は提案した。
「修復して、写真展を開きませんか? 過去に着た花嫁さんや、その家族を招いて」

美咲は迷ったが、やがて頷いた。
何かに導かれるように。

準備の日々は慌ただしくも楽しかった。
ドレスは黄ばみを落とし、ほつれを直し、裾の刺繍糸も新しく補強された。
レースの透け感が蘇り、光を受けて柔らかく輝く。

やがて写真展当日。
会場には年配の女性やその家族が集まり、ドレスを囲んで懐かしそうに語り合っていた。
「この刺繍、私が着たときもあったわ」
「母がこのドレスで結婚したんですよ」
笑顔と涙が交錯し、会場全体が温かな空気に包まれた。

ふと、美咲は気づく。
自分もまた、この物語の続きを紡ぐ一人になっている。

展覧会の片付けが終わる頃、悠人が言った。
「美咲さん、あなたもいつか着てほしいな。このドレス」
不意の言葉に、美咲は笑って答えた。
「その時は、あなたが写真を撮ってくれる?」
悠人は真っ直ぐに頷いた。

アトリエに戻ったドレスは、再び静かに吊るされている。
けれどもう埃はなく、光の中で新しい命を待っていた。
その白は、過去と未来をつなぐ色。
誰かを愛し、想いを託す人がいる限り、何度でも輝きを取り戻すだろう。