朝、目が覚めると同時に、結衣はベーグルのことを考える。
もちっとした食感、香ばしい香り、焼きたての湯気。
仕事に向かう前の慌ただしい時間でも、ベーグルだけは欠かせない。
彼女がベーグルに出会ったのは三年前。
ニューヨーク旅行の最終日、ホテル近くの小さなベーカリーで食べた、プレーンベーグルがきっかけだった。
軽くトーストして、クリームチーズをたっぷり。
外はパリッ、中はぎゅっと詰まった生地。
そのシンプルな美味しさが、結衣の心を撃ち抜いた。
それからというもの、休日になると結衣は東京中のベーグル店を巡った。
カフェやベーカリー、イベントのマルシェまで、SNSで見つければすぐに足を運ぶ。
お気に入りのノートには、訪れた店の名前、感想、食べたフレーバーを丁寧に記録している。
ある日、彼女は職場近くに新しくできた小さなベーグル専門店を見つけた。
店名は「くるり」。
扉を開けると、バターや砂糖の甘い香りではなく、小麦と酵母の素朴で温かい香りが広がる。
棚にはプレーン、セサミ、ブルーベリー、そして珍しい抹茶ホワイトチョコのベーグルが並んでいた。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのは、エプロン姿の青年だった。
柔らかい雰囲気を持つその人は、店主の高橋蓮と名乗った。
彼はベーグルの魅力を語る時、まるで大切な友人のことを話すような優しい表情をする。
結衣は、気づけばその場で三種類も買ってしまった。
翌週も、その翌週も、結衣は「くるり」に通った。
毎回違う味を選び、帰宅すると温め直して味わった。
袋を開ける瞬間の香りと、噛むたびに広がる旨味に、日々の疲れが溶けていく。
ある日、いつものように店に行くと、棚に「限定・ローズマリーチーズ」と書かれた新作が並んでいた。
「これ、試作してみたんですけど……ちょっと香りが強いかもしれません」
蓮は少し恥ずかしそうに笑った。
結衣は迷わずそれを購入し、帰宅後に温めて食べた。
ローズマリーの爽やかな香りとチーズの塩気が絶妙に合い、彼女は思わず声を漏らした。
翌日、感想を伝えに店を訪れると、蓮の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか? じゃあ、次は結衣さんの好きな味も作ってみます」
「えっ、私の?」
「ええ。せっかく毎週来てくださる常連さんですから」
それから一ヶ月後、「くるり」の棚に新作が並んだ。
名前は「ハニーシナモンナッツ」。
外は香ばしく、中には甘い蜂蜜とシナモン香るくるみがぎっしり詰まっている。
結衣が以前、雑談の中で「甘い系ベーグルも大好き」と話したのを覚えていてくれたのだ。
結衣はそれを手に取り、かすかに震える指先で袋を抱きしめた。
ベーグルを通して、ただの店員と客だった二人の距離は、少しずつ近づいている。
食べ物の好みを共有できることが、こんなにも温かいとは知らなかった。
その日、帰宅後にハニーシナモンナッツを一口かじった瞬間、結衣は胸がいっぱいになった。
香りも食感も、すべてが彼女のためだけに作られたように感じられたからだ。
ベーグルはただのパンではない。
結衣にとって、それは人と人をつなぐ小さな輪の形をした魔法だった。
そして彼女は思う。
明日もまた、この小さな店の扉を開けよう、と。