風のベンチ

面白い

朝の光が差し込む小さな町の公園。
すべての季節を穏やかに受け入れるその場所を、沙耶は十年以上も通い続けている。

年齢は三十二。
独身。
事務職として平日は都内のビルで働いている。
電車に揺られ、書類をさばき、エクセルを開いては閉じる。
特別なことはないが、それなりに満足している。
だが、彼女にとって日々を保つための“芯”は、実は仕事ではなく、毎週土曜の朝に訪れるこの「緑丘公園」だった。

きっかけは高校時代だった。
進学校でのプレッシャー、人間関係のギクシャク、家庭の不和。
息が詰まりそうな日々のなか、逃げ場を求めてふらりと入った公園。
ふかふかの芝生、鳥のさえずり、ベンチに座って新聞を読む老人。
すべてが、何も強制しない空気をまとっていた。

「ここ、何も言わないから好き」

そう思った。
それ以来、彼女は公園に通い始めた。
大学時代、就職活動、失恋のあとも、変わらず公園はそこにあった。

彼女が特に好きなのは、東側の一本桜の木の下にある古びた木製ベンチだ。
春には桜の花びらが舞い、夏には葉が日差しをやわらげる。
秋には赤と金のじゅうたんが広がり、冬には枝が凍てつく空にしんと立つ。
毎週、そこに座ってお茶を飲むのが沙耶のルーティンだった。

ある日、そのベンチに先客がいた。七十代くらいの小柄な女性。手にはスケッチブック。公園の風景を描いていたようだった。沙耶は少し離れたベンチに腰かけた。数分後、女性が彼女に気づき、微笑みかけてきた。

「あなたもこの場所が好きなの?」

沙耶は軽くうなずいた。

「はい。週に一度ここに来るんです。なんとなく、元気になれるから」

「わかるわ。ここはね、時間がゆっくりになるのよ」

女性の名は中山サト。
元美術教師で、夫を亡くしてからこの公園に通い始めたという。
話してみると、ベンチの木目の変化や、桜の咲き始める時期、鳥の名前まで、彼女は沙耶よりもずっとこの場所を見つめていた。

それから、沙耶は毎週中山さんと少しだけ話すようになった。
長くても十分ほど。でもその時間が、日々の疲れを柔らかく包んでくれた。

ある年の冬、中山さんは姿を見せなくなった。
数週間、沙耶は待ち続けた。
心配で、市の掲示板や病院の情報を探した。
だが何の手がかりもなかった。

春、桜が咲く日。
ベンチの背もたれに、一枚のカードが差し込まれていた。

「ありがとう。あなたと話せて、うれしかった。私はもう少し遠くの公園へ行くけれど、この場所をずっと愛していてくださいね。」

優しい丸文字の筆跡だった。
涙が止まらなかった。

それ以来、沙耶は週に一度、スケッチブックを持って公園に通うようになった。
絵はうまくない。
だが、それでいいと思っている。
自分の目で、心で、感じたものを残したい。
風の匂い、花の揺れ、遠くで笑う子どもたちの声。
どれも、今日という日しかない宝物だ。

休日の朝、一本桜のベンチには今日も彼女が座っている。
風にノートをめくりながら、目を細めて。

きっとあの人も、どこかのベンチで同じ空を見ている。