祖母の家には、季節になるとダリアの花が咲き誇る庭があった。
背の高い茎に大きく開いた花びらが、赤、黄色、紫、白と色とりどりに揺れていた。
幼い頃、夏休みにその庭で虫を追いかけたり、スケッチブックを持って座り込んだりした記憶が、今でも鮮やかに残っている。
「ダリアはね、人の心に似ているのよ」
そう言ったのは祖母だった。
小学三年生の私には、よくわからない言葉だったけれど、そのときの祖母の微笑みが、どこか少し寂しげだったことだけは覚えている。
それから十五年。
私は東京で忙しい毎日を送りながらも、ふとしたときにダリアの花を思い出すようになっていた。
駅前の花屋で見かけたとき、雑誌の写真に載っていたとき、テレビCMの背景にちらりと映ったとき。
あの大きくて華やかな花は、どこか他のどの花よりも「帰りたい場所」を思い起こさせた。
祖母が亡くなったのは、私が社会人二年目の夏だった。
知らせを受けて帰郷した私は、あの庭の前で立ちすくんだ。
かつて色とりどりに咲いていたダリアたちは、雑草に覆われ、茎は折れ、ほとんど姿を消していた。
「手入れする人がいなくなってから、すっかりダメになってねえ」
近所の奥さんがそう言った。
私は庭にしゃがみ込み、地面をそっと撫でた。
指先に感じたのは、かすかな茎の感触。
生きている。
まだ、土の中で生きている。
その年の秋、私は会社を辞めた。
驚く家族をよそに、祖母の家に移り住み、ダリアの庭を蘇らせることに決めた。
なぜそこまで?と問われても、言葉にできる理由はなかった。
ただ、そうしなければいけない気がした。
毎朝、土を耕し、残された球根を掘り起こし、肥料を加え、水をやる。
園芸の知識などなかったが、手は自然に動いた。
祖母が語ってくれた言葉や姿を思い出しながら、少しずつ、少しずつ。
最初の一年は花が咲かなかった。
近所の人には「無理だよ、やめときな」と言われたが、私はやめなかった。
二年目、春の終わりに小さな芽が出た。
それを見たとき、私は泣いた。
そして三年目。
庭は、かつてのように色とりどりのダリアで満ちた。
「よく、ここまで戻したねえ」
通りがかりの人が驚いたように言った。
その声を聞きながら、私は笑った。
祖母も、きっと空の上から見てくれている気がした。
ある日、若い女性が庭の前に立ち止まった。
観光客だろうかと声をかけると、彼女は言った。
「ここ、以前に一度だけ来たことがあるんです。小学生のとき、祖母に連れられて。こんなにきれいなダリアを見たの、初めてでした」
私は彼女を庭に招き入れ、一緒に花を見た。
花の話をするたびに、祖母の声が心に蘇った。
ダリアは、華やかで強く、美しい。
でもその根には、冬の寒さに耐える粘り強さがある。
人の心に似ているという祖母の言葉は、今なら少しだけわかる気がする。
私は今、この庭で暮らしている。
ときどき花を切って町の小学校に持っていき、子どもたちに見せている。
花を見て目を輝かせる子どもたちの顔を見ていると、ダリアを通して何かを繋いでいる気がするのだ。
祖母の心、あの夏の日の記憶、そしてこの庭の命。
花が咲くたび、私は思う。
ここは、ただの庭じゃない。
心が帰ってくる場所なのだと。