真冬の朝、空気は凍るように冷たいのに、陽子の心はどこか温かかった。
それは今夜、久しぶりに「スンドゥブチゲ」を作ると決めたからだ。
陽子は28歳の会社員。広告代理店で忙しい日々を過ごしていた。
人付き合いはそこそこ、恋人はしばらくいない。
でも、それなりに充実した日々だった。
ただ、仕事に追われる日々の中で、何かがぽっかりと抜け落ちているような、そんな感覚も常にあった。
そんな彼女の心の支えは、スンドゥブチゲだった。
小学生の頃、母が寒い夜によく作ってくれた。
豆腐がぷるぷる揺れ、卵がとろりと溶けて、口に入れるとピリ辛のスープが体を一気に温めてくれる。
寒さでかじかんだ指先まで、じんわりと血が通うようなあの感覚。
母と並んで小さな卓上コンロを囲んで食べた記憶は、今でも鮮やかに心に残っている。
しかし、母は数年前に病気で他界した。
父は地方で暮らしており、陽子は東京で一人暮らしを続けている。
母を失ってから、しばらくスンドゥブチゲは作れなかった。
あまりにも思い出が濃すぎて、味が悲しみを呼び起こす気がしていた。
でもある日、職場の後輩・田辺くんが何気なく言った。
「陽子さんって、どんな料理が好きなんですか?」
「……スンドゥブチゲかな。母がよく作ってくれてたの」
懐かしさと少しの寂しさが混ざった返答に、田辺くんは「へえ、おいしそうですね。僕、食べたことないかも」と笑った。
その無邪気な笑顔に、陽子の心が少し揺れた。
その夜、久しぶりにスーパーで豆腐とあさりを買った。
唐辛子粉、コチュジャン、にんにく、そして忘れてはならないごま油。
どれも母がいつも使っていた材料だ。
手順はなんとなく体が覚えていた。
鍋に火をかけ、具材を丁寧に炒め、スープを注ぐ。
そして、卵をそっと落とす。
ふつふつと煮立つ鍋を見つめながら、陽子は気づいた。
この料理には、母のぬくもりと、自分の小さな勇気が詰まっているのだと。
翌日、彼女は思い切って田辺くんを夕食に誘った。
「うちでスンドゥブチゲ、作ってみようか?食べてみたいって言ってたよね?」
彼は目を丸くして喜び、「いいんですか!?」と何度も聞き返した。
夕方、ふたりで食材を買い込み、台所で並んで料理した。
田辺くんは不器用だったが、一生懸命な姿が微笑ましかった。
「うわ、これ…めっちゃうまいですね!」
一口目を食べた田辺くんが、目を見開いてそう言ったとき、陽子の胸にじんと何かが広がった。
母がいたころの記憶がよみがえり、そして今、自分の作った味を誰かが美味しいと言ってくれることの幸せ。
「また、作ってくださいよ」
「うん。……そのうちね」
陽子は笑った。その笑顔には、もう悲しみだけじゃないぬくもりが宿っていた。
スンドゥブチゲは、ただの韓国料理じゃない。
彼女にとっては、家族の思い出であり、そして新しい出会いをつなぐ、あつあつの心そのものだった。