朝露がまだ残る夏の早朝、佐々木杏はいつものように、小さなキッチンで桃の皮を丁寧にむいていた。
包丁を入れた瞬間に広がる甘い香りは、杏にとって一日の始まりを告げる合図だった。
杏は静かな町の片隅で「こもれび喫茶」という小さなカフェを営んでいる。
都会の喧騒から離れたこの場所に、彼女が越してきたのは三年前。
大きな失恋と仕事の燃え尽き症候群に心が折れ、何もかも投げ出して訪れたこの町で、ふと立ち寄った果樹園で出会ったのが、今も変わらず続く“桃”との縁だった。
「甘いだけじゃなくて、どこかやさしい味がする」
初めて地元の農家が育てた桃を食べたとき、杏はそう感じた。
ふんわりとした果肉、口いっぱいに広がる香り、そして何より、心の中にぽっと灯るようなあたたかさ。
都会のカフェで見慣れた、見た目ばかり整ったスイーツとは違い、どこか不器用で、でも誠実な味がした。
それから杏は毎日桃のことを考え、レシピを試し、失敗してはまた考えた。
やがて完成したのが、「桃のスムージー」だった。
冷凍せず、生の桃をそのまま使う。
牛乳ではなく豆乳を使うことで、やわらかな甘さを引き立てる。
そしてほんの少し、ライムを絞って爽やかさを添える。
シンプルだけれど、どこにもない味だった。
店を開いた初夏のある日、最初の客が入ってきた。
白髪の男性が、カウンターの前にそっと腰を下ろした。
「ここは桃のスムージーが飲めるって聞いてね」
その言葉に杏はうれしさと緊張で手を震わせながら、一杯のスムージーを出した。
男性は静かにそれを口に含み、ゆっくりと目を閉じた。
「……これは、あの人が好きだった味だ」
彼は亡き妻が桃が大好きだったこと、二人で旅をした先で飲んだスムージーの話を、ぽつぽつと語り始めた。
杏は黙ってそれを聞きながら、心がじんわりと温かくなるのを感じていた。
それ以来、「桃のスムージー」は喫茶店の看板メニューになった。
若い女性、母親と小さな子ども、仕事帰りのサラリーマン、誰もが「この味、やさしいですね」と言って笑顔になって帰っていく。
杏はそのたびに、桃のやさしさが人の心に届くことを実感した。
ある日、カフェにひとりの青年が現れた。
無精ひげにぼさぼさの髪、無愛想な表情。
その青年が、ぶっきらぼうに「桃のやつ、ください」と言った。
杏はいつものようにスムージーを作って差し出した。
青年は無言でそれを受け取り、ゆっくりと一口、また一口と飲んでいった。
そしてふと、ぽつりと呟いた。
「……なんでか知らないけど、涙が出そうになるな」
その言葉に杏ははっとした。
かつて自分も、同じような気持ちになったことがあった。
何も言わず、ただ桃の味に救われた朝が、たしかにあったのだ。
「大丈夫ですよ。桃って、そういう果物なんです」
杏は微笑んでそう答えた。
季節はめぐり、今年も桃の季節がやってきた。
杏は今日も、朝早くに仕入れた桃をそっと手に取り、優しく皮をむく。
やがて静かなキッチンに、ふんわりと甘い香りが広がる。
「おはよう、今日もよろしくね」
そう声をかける杏の表情は、どこまでも穏やかだった。
きっとこれからも、誰かの心に寄り添う一杯を、この小さなカフェで作り続けていくのだろう。
──桃のやさしさは、彼女の中にも、たしかに息づいていた。