東京の下町、商店街のはずれに、ぽつんと赤ちょうちんが灯る焼き鳥屋「とりよし」がある。
暖簾をくぐると、炭火の香りと、じゅうじゅうと肉が焼ける音が出迎えてくれる。
カウンターだけの小さな店を営んでいるのは、五十代の店主・吉田誠(よしだまこと)だ。
誠が焼き鳥屋を始めたのは、十年前。
かつては大手商社に勤め、海外を飛び回る生活を送っていた。
だが、家族との時間は減り、妻と一人息子とはすれ違いが続いた。
やがて家庭は崩れ、誠は孤独になった。
そんなとき、ふと立ち寄った地方の焼き鳥屋で、黙々と串を焼く老店主と、その店の温かい空気に心を打たれた。
「食べものひとつで、人はこんなに安心できるのか」
その晩、誠は心に決めた。
もう一度、人と向き合って生きてみよう、と。
そして会社を辞め、料理の経験もないまま、焼き鳥屋の道へ飛び込んだ。
最初はうまくいかなかった。
串の打ち方も、火加減も、接客も手探り。
だが、近所の肉屋の大将や、古くからの八百屋のおばちゃんに助けられながら、少しずつ店を作り上げていった。
商売としては決して大成功とはいえないが、常連は少しずつ増え、「とりよし」には誰もが安心して戻ってこられる空気が流れていた。
ある晩、一人の青年が店を訪れた。
スーツ姿で、目の下にくまを浮かべ、スマホを見ながら焼き鳥を食べている。
誠はふと、その青年の横顔に見覚えを覚えた。
「……もしかして、悠馬(ゆうま)か?」
青年は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。
「……父さん?」
それは、十年ぶりに見る息子だった。
別れて以来、誠は息子と一度も連絡を取っていなかった。
どこにいるのかも知らなかった。
だが、偶然か、運命か、息子は取引先の帰り道、たまたまこの路地を歩き、赤ちょうちんに引かれて暖簾をくぐったのだった。
気まずさが流れる中、誠は黙って手を動かし、串を焼いた。
炭火の上で、皮がパリパリに焼け、ねぎまがじゅうじゅうと音を立てる。
焼き上がったそれを、そっと息子の前に置いた。
「……覚えてるか? 昔、お前が熱出したとき、これだけは食えたって言ってた皮串だ」
悠馬は、しばらくそれを見つめていたが、やがてそっと箸を伸ばし、ひとくちかじった。
「……うまいな」
その一言に、誠は何も言えなかった。
ただ、うなずくことしかできなかった。
その日を境に、悠馬はときどき店に顔を出すようになった。
仕事の愚痴をこぼすこともあれば、ただ黙って飲むだけの日もある。
誠もまた、余計なことは言わず、ただ串を焼き、酒を出す。
それだけで、言葉以上に心が通っていく気がした。
春が過ぎ、夏が来るころ、悠馬はぽつりと言った。
「……会社、辞めようかと思ってる。なんか、燃え尽きちゃったみたいで」
誠は手を止めず、静かに言った。
「辞めてもいい。でも、逃げるんじゃなく、何かを始めるならな」
「……始めるって?」
「たとえば、焼き鳥屋とか」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
その翌年、「とりよし」はもう一人の店員を迎えた。
名札には「見習い・悠馬」と書かれていた。
まだまだ串打ちも下手で、火の扱いも甘いが、誠は満足そうに言う。
「まあ、焼き鳥も人生も、焼き加減が大事だからな」
商店街の夜は今日も、赤ちょうちんの灯りと、炭火のぬくもりで静かに照らされている。