静かな歩幅

面白い

早川理沙は、人混みが苦手だった。

東京に住んで十年になるが、満員電車にはいまだに慣れない。
誰かの息遣い、香水や汗の匂い、知らない肩が押しつけられる感覚。
どれも彼女にとっては耐えがたいもので、乗るたびに胸の奥がざわついた。

彼女の職場は新宿にある出版社で、編集者として働いている。
華やかに見える世界だが、実際は締切に追われ、取材に出れば渋谷や池袋の雑踏に足を運ばねばならない。
いつしか、理沙は「人に会う」のではなく、「人をかき分ける」毎日に、心の奥で消耗していた。

週末、彼女は決まって郊外の小さな図書館に通っていた。
都心から電車で40分、駅前にも人は少なく、図書館の裏には小さな公園がある。
ベンチに座って文庫本を開き、木漏れ日の下で静かに文字を追う。
誰も話しかけず、誰も急がない。
理沙が唯一、心から呼吸できる時間だった。

ある日、図書館の一角にある「読書ノート」のコーナーで、彼女は気になる書き込みを見つけた。

「人が多いところが苦手で、ここに来るとほっとします。風の音とページをめくる音だけがあれば、それで十分です。」

それは、まるで自分のことのようだった。
理沙はその日から、図書館を訪れるたびにノートをめくり、その人の新しい書き込みを探すようになった。
内容は読んだ本の感想だったり、日々の小さな出来事だったり。
名前も性別もわからないが、その人の文章は優しく、慎重で、理沙は読むたびに心がゆるんでいくのを感じた。

一ヶ月ほどたった頃、いつものベンチで読書をしていると、隣に座った青年が文庫本を開いた。
彼も静かに読んでいたが、ふと視線が合ったとき、彼が小さく微笑んだ。

「こんにちは。もしかして、読書ノート……書いてる方ですか?」

理沙は驚いて思わず「えっ」と声をあげた。
彼も同じノートに書き込みをしていたのだという。
筆跡を頼りに、お互いの文章に気づいたらしい。

「ずっと、誰なんだろうって思ってました。でも、会えてうれしいです。僕も人混みが苦手で、ここが心の避難場所で。」

彼の名前は川島湊(みなと)といった。
デザイン会社に勤めていて、仕事帰りや休日によくこの図書館に来るという。
ふたりは少しずつ言葉を交わし、その日から図書館で顔を合わせれば短い会話をするようになった。

無理に予定を合わせることもなく、連絡先を交換するでもない。
けれど、週に一度のその偶然が、理沙にとっては穏やかな楽しみになっていった。

ある日、湊がぽつりと言った。

「理沙さん、今度、近くの川沿いを一緒に歩きませんか? ここよりもっと静かで、風がきれいなんです。」

理沙は一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。

その日、ふたりは桜の葉が揺れる川沿いの道を、誰にも邪魔されずに歩いた。
言葉は少なかったが、それで充分だった。
誰かと一緒にいても、心が騒がしくならない。
そんな時間があることを、理沙は初めて知った。

彼女は今でも人混みが苦手だ。
駅のアナウンスや雑踏に肩をすくめる日もある。
けれど、心の避難場所は、もう図書館だけではなくなっていた。

——その人と過ごす、静かな歩幅の時間が、彼女にとって何よりの救いになっていた。