ソウルのはずれ、小さな路地裏にひっそりと佇む食堂がある。
店の名前は「ハルモニの味」。
古びた木の看板に手書きの文字が味わい深く、通りがかる人が思わず立ち止まってしまうような、そんな温もりを感じさせる佇まいだ。
この店の看板料理は、チャプチェ——春雨と野菜、牛肉を炒めた韓国の伝統料理である。
しかし、その味にはただの伝統を超えた「物語」があると、常連たちは口を揃える。
店主のスニは、七十歳を超える小柄な女性だ。
白髪をきっちりと後ろに束ね、いつも清潔なエプロンを身に着けている。
彼女が作るチャプチェは、どこか懐かしく、そして心の奥をやさしく撫でてくれるような味だった。
「チャプチェには、私の母の思い出が詰まっているのよ」
スニは時折そう語る。
スニが少女だった頃、韓国は戦後の混乱の中にあった。
食べ物が乏しく、贅沢な料理は夢のまた夢。
しかし、スニの母はどんなに苦しくても、家族の誰かが誕生日を迎えると、必ずチャプチェを作ってくれた。
「野菜は少し、肉もほんの少しだけ。でも、母は春雨にしっかり味を含ませて、ひとくちひとくちに『おめでとう』って気持ちを込めていたの」
スニの父は早くに亡くなり、母ひとりで三人の子どもを育てた。
彼女はいつも働き詰めだったが、チャプチェを作るときだけは時間を忘れ、丁寧に野菜を切り、春雨を茹でていた。
その姿を、スニは台所の片隅からじっと見ていた。
やがてスニも大人になり、結婚し、子どもを持ち、そして…夫に先立たれた。
子どもたちは都会へ出て行き、家にはスニひとりが残った。
そんなある日、古いレシピ帳の間から、母の字で書かれた「チャプチェの作り方」が出てきた。
紙は黄ばんでいたが、インクの跡は力強かった。
「すべての材料が揃わなくてもいい。大事なのは、相手を思って作ること」
その一文に、スニの目から涙がこぼれた。
「もう一度、この味を伝えたい」
そう思ったスニは、退職金を元手に小さな店を開いた。
それが「ハルモニの味」だった。
当初、客は少なかった。
しかし、口コミでチャプチェの評判が広まり、やがてメディアでも紹介されるようになった。
味の奥深さ、家庭の温かみ、そしてスニの人柄に惹かれて、老若男女が訪れるようになった。
ある日、若い女性が一人で店を訪れた。
どこか見覚えのある顔だった。
「もしかして……スンヒの娘さん?」
女性は驚いたように目を見開き、やがて泣き出した。
「母が亡くなる前に、ここのチャプチェを食べたいって言ってたんです。でも、間に合わなくて……」
スニは静かに頷くと、厨房に入り、ゆっくりとチャプチェを作り始めた。
にんじんを細く切り、しいたけを炒め、春雨を甘辛く煮る。
すべての工程に時間をかけ、思いを込めた。
出来上がった一皿を前に、女性は箸を取る。
ひと口食べた瞬間、目に涙が溜まった。
「これ……母が作ってくれた味です」
スニは静かに笑った。
「あなたのお母さんも、きっと同じように思いを込めていたのね」
その日以来、女性はときどき店を訪れ、スニの手伝いをするようになった。
今では厨房の隅に、もう一つのエプロンが掛けられている。
チャプチェは、ただの料理ではない。
それは、思いをつなぐ味。
時を超えて、人と人を結ぶ、春雨色の約束なのだ。