ガラスの靴に触れた日

面白い

幼い頃、茉莉(まつり)は祖母の家の本棚にあった一冊の絵本を何度も読み返していた。
タイトルは『シンデレラ』。
灰かぶり娘が魔法で美しいドレスをまとい、ガラスの靴を履いて舞踏会に現れる物語。
その中でも、茉莉が特に心惹かれたのは、あの透明な靴だった。

「本当にガラスの靴なんてあったら、どんな風に足を入れるんだろう」

小さな指で絵本のイラストをなぞりながら、彼女は夢想した。

それから十数年が過ぎても、茉莉の心にはガラスの靴への憧れが消えることはなかった。
大学で美術史を学ぶ中、彼女は「ファッションと社会」をテーマに卒業論文を書き始めた。
取り上げたのは、歴史上の靴と女性像の変遷。
そして、ラストに据えたのは「ガラスの靴」という架空の存在が持つ象徴性だった。

――靴は単なる道具ではない。
それは、歩む先を選ぶ力であり、自分を表現する道具。

「でもさ、実際にガラスでできた靴なんてあったら、重くて歩けないし、割れやすくて危ないよな」

そう言って笑ったのは、同じゼミの陽介だった。
陽介は飾らない性格で、茉莉の夢見がちな話にもよく現実的なツッコミを入れてきた。

「それでもいいの。私にとっては象徴なの」

茉莉は少し頬を赤らめながら言い返した。

「象徴ねぇ。でももし現実に手に入ったら、どうする?」

「……触ってみたい。履けなくてもいい。そっと両手で持って、ガラス越しに夢を見てみたい」

そんなある日、大学近くの小さなギャラリーで、ヨーロッパの現代工芸展が開かれることを知った。
何気なく立ち寄ったその展示で、彼女は言葉を失った。

そこに、ガラスで作られた一足の靴が展示されていたのだ。

実物は思ったより小さく、繊細なラインで成形されていた。
光が当たると虹色の輝きが靴の曲線に沿って流れていく。
そこに込められた職人の技術と情熱を、茉莉は一瞬で感じ取った。

「……これが、私の見たかったガラスの靴だ」

周囲の喧騒も、人の気配も消えたように思えた。
彼女の世界には、ただその靴だけが存在していた。

その瞬間、隣にいた陽介がぽつりと言った。

「その靴、イタリアの職人が作った一点ものらしいよ。売り物じゃないんだって」

「うん……知ってる。でも、見れただけで、嬉しい」

彼女は涙ぐみそうになりながら、もう一度、靴に視線を注いだ。

数日後、卒業論文の最終発表の日。
茉莉はスライドの最後に、あの靴の写真を映し出しながら、こう語った。

「ガラスの靴は、現実的には歩けないかもしれません。でも、それは女性が“理想”を求め、現実の壁と向き合うための象徴でもあると思います。夢を見る力が、私たちを少しだけ前に進ませてくれる。その一歩の先に、本当の自分の道があると、私は信じています」

発表が終わった後、拍手が起こった。
陽介は最後列で微笑んでいた。

卒業式の夜、茉莉は帰り道にそっと紙袋を渡された。

「なにこれ?」

「開けてみなよ」

中には、透明なアクリルで作られた小さな靴のオブジェが入っていた。
手作りのようで、少しいびつだったが、温かさがあった。

「俺なりに頑張ってみた。茉莉にとっての“象徴”って、きっとこういうのだろうって思ってさ」

茉莉は胸がいっぱいになった。
夢は形にならなくても、誰かが寄り添ってくれるだけで、こんなにも心が満たされるのだ。

「ありがとう。これは私だけの、ガラスの靴だね」

彼女はオブジェを胸に抱きしめた。
夢は消えない。それはきっと、自分の中で静かに輝き続ける“希望の光”なのだ。

そして茉莉は、そっとその一歩を踏み出した――自分の足で、自分の靴を履いて。