香りの扉の向こうへ

面白い

駅から少し離れた、古いレンガ造りの路地裏に、その店はある。
木の扉に白いリースが飾られた「Candle Atelier LUNA」。
看板には、小さく「香りは、記憶を連れてくる」と書かれている。

店主は三好茉莉(みよし・まり)、三十歳。
彼女はもともと都内の広告代理店で働いていた。
クライアントの無理難題、終電近くまでの残業、せわしない日々。
いつのまにか、自分の「好き」や「夢」さえ見えなくなっていた。

そんなある晩、疲れて帰宅した彼女は、ふと思い出したように、昔の引き出しから一本のアロマキャンドルを取り出した。
大学時代に友人からもらった、ラベンダーの香りのもの。
火を灯すと、淡い光とともに、部屋にやさしい香りが広がった。

その瞬間、なにかがほどけた。
心の奥底に沈んでいた疲れや不安が、少しずつ溶けていくのを感じた。
思えば、小さい頃から香りが好きだった。
母の紅茶の匂い、祖母の使っていた石鹸の香り、夏休みの虫よけスプレーのレモングラスの匂い――。
香りはいつも、彼女に安心と記憶を与えてくれていた。

「香りの世界で、生きていけたらいいのに」

その夜から、茉莉はアロマキャンドルづくりを独学で始めた。
休日には専門書を読み、オンライン講座で調香の基礎を学び、手作業でロウを溶かしては香料を混ぜ、自室で小さなキャンドルを作り続けた。

一年後、彼女は会社を辞めた。

両親には反対された。
「安定を捨てるのか」「趣味で食べていけるわけない」と言われたが、それでも茉莉の心は揺るがなかった。
むしろ、ようやく自分の「好き」と真っ直ぐに向き合えたことが、嬉しかった。

資金は、これまで貯めていた退職金と少しの融資。
場所は、偶然見つけた古民家風の空き店舗。
内装はDIYで仕上げ、天井からドライフラワーを吊るし、壁には香りごとの「記憶のストーリー」を飾った。

オープン初日、客はひとりも来なかった。

けれど茉莉は、焦らなかった。
SNSで一日ひとつ、自分のキャンドルに込めた想いや香りの記憶を綴っていった。
たとえば「雨上がりの午後のすずらん」や「失恋した夜のローズウッド」など、香りと物語が結びついた作品たち。

それが次第に、共感を呼び始めた。
「涙が出ました」「その香り、私の初恋を思い出します」――。

気づけば、週末には行列ができるようになっていた。

ある日、ひとりの老婦人がやってきた。
手にしていたのは、かすかに色あせた写真。
そこに写るのは、若き日の彼女と夫。
その横に置かれていたのは、昔のジャスミンの香りのキャンドル。

「この香り、作れますか?」

茉莉は写真をじっと見つめ、記憶をたどりながら、いくつもの香料を試した。
何度も調合を重ね、ようやく完成したキャンドルを手渡したとき、老婦人の目から涙がこぼれた。

「ありがとう。亡くなった夫との思い出が、また香りとして蘇ったわ」

その日、茉莉ははっきりと知った。
香りは、記憶の扉を開ける鍵になる。
だからこそ、自分が届けたいのは「ただの雑貨」ではなく「心に寄り添う灯り」なのだと。

今も、茉莉の店には毎日さまざまな人が訪れる。
大切な人への贈り物、失恋を癒すための香り、自分だけの安らぎの時間を求める人たち――。

そして、茉莉は今日も静かにロウを溶かしながら、自分の心と向き合っている。

「香りは記憶を連れてくる。そして、誰かの明日をそっと照らしてくれる」

キャンドルの炎が、ゆらりと揺れた。