潮の香りが混じる風が、朝の浜辺を優しく撫でていた。
港町のはずれに住む青年・遥人(はると)は、毎朝決まって海辺の岩に腰を下ろし、水平線を眺めていた。
何をするでもなく、ただ、波の音に耳を澄ませる。
遥人が海を好きになったのは、幼い頃、祖父に連れられて漁に出た日がきっかけだった。
祖父の手に握られた漁網の手触り。
太陽を浴びて銀色に光る魚たち。
海面を跳ねるイルカの影。
そして何より、海が話しかけてくるような感覚。
あの日の海は、遥人にとってただの自然ではなく、「生きているもの」になった。
高校を卒業しても進学はせず、港で荷運びの仕事をしながら、空いた時間は海に向かっていた。
「何もせずに海を眺めて、何になる」と笑う人もいたが、遥人は気にしなかった。
ある日、海辺のベンチで小さな女の子が泣いていた。
遥人は近づき、声をかけた。
「どうした?」少女はすすり泣きながら、小さな貝殻を握りしめていた。
「この貝、お父さんと一緒に拾ったの。お父さん、もう帰ってこないの」
少女の名は紗良。
父親は漁師で、半年前に嵐に巻き込まれ、帰らなかったという。
遥人は黙って座り、海を見つめた。
潮風が吹き抜け、どこか懐かしい匂いを運ぶ。
「海は、全部を奪うわけじゃないよ」と遥人は言った。
「え?」
「ちゃんと、覚えてる。あの時の風も、波の音も、貝の色も。お父さんと君が一緒に笑った、その時間も、海が覚えてる」
紗良はじっと遥人を見つめたあと、ふいに「またここに来てもいい?」と聞いた。
「もちろん」と遥人は笑った。
それから、紗良は時折海辺に現れるようになった。
最初は黙って貝を集めるだけだったが、次第に笑顔が戻ってきた。
遥人はそんな彼女に、波の見方、風の読み方、海の色の違いを教えた。
季節がめぐり、冬の風が町を包む頃、紗良の母親が遥人に頭を下げた。
「娘が笑うようになったのは、あなたのおかげです。ありがとうございました」
遥人は戸惑いながらも、「いえ、俺は何も。ただ、海が教えてくれただけです」と答えた。
ある夜、遥人は夢を見た。
祖父と一緒に舟を漕ぎ、広い海原を進む夢だった。
祖父が振り返り、「お前は海の声を聞ける子だったな」と微笑んだ。
目覚めた遥人は、静かな海を見つめた。
そして心の中で、祖父にそっと誓った。
「いつか、俺も舟を出そう。人を乗せて、海と話す仕事がしたい」と。
それから数年後、港町に一艘の小さな遊覧船が誕生した。
「海の声ツアー」と名づけられたその船には、遠方から訪れる客が後を絶たなかった。
船長は遥人。彼のガイドは奇をてらわず、ただ海と共にある時間を大切にするものだった。
デッキの上で、紗良が笑って手を振る。
「遥人さん、今日の海も、綺麗だね!」
「ああ、海が、ちゃんと話してくれてる」
風が吹き、波がささやく。
遥人は微笑んだ。
海が好きな一人の人間が、また誰かにその愛を伝える。
そんな循環が、潮の満ち引きのように、静かに、しかし確かに続いていくのだった。