「鮭の塩焼きって、なんであんなに幸せな気持ちになるんだろうね」
そう言いながら、湯気の立つ朝の食卓で箸を進めるのは、佐藤良太(さとう・りょうた)、三十五歳。
地方の中小企業で経理をしている、ごく普通の独身男性だ。
朝は白米に味噌汁、そして鮭の塩焼きが定番。
外食も惣菜もほとんど興味がなく、彼にとって「焼きたての鮭」は心のよりどころだった。
きっかけは、小学生の頃。
母が作ってくれたお弁当の中に入っていた鮭の切り身。
冷めても香ばしく、少し塩辛いその味が、昼休みの騒がしい教室の中で、自分を落ち着かせてくれる唯一のものだった。
母は料理上手ではなかったが、鮭だけは絶妙だった。
強火で皮目をパリッと焼き、中はふっくら。
ほんの少し焦げた塩が香ばしくて、どこか懐かしい。
母が亡くなったのは、彼が二十歳の時。
病床で「最後に何か食べたいものある?」と聞くと、母は笑って言った。
「あなたが焼いた鮭、食べたいわ」
そのとき、初めて良太は自分で鮭を焼いた。
慣れない手つきでグリルに火を入れ、煙を立てながらなんとか焼き上げた一切れ。
母は一口食べて、目を細めた。
「うん、おいしいよ」
それ以来、良太は毎朝、鮭を焼く。
仕事でどんなに疲れていても、鮭を焼くと心が落ち着く。
皮がパチパチとはじける音、漂ってくる塩と脂の香り、それだけで一日が始まる気がした。
職場では無口で通っていたが、ある日、後輩の小林が「朝ごはん何食べてます?」と話しかけてきた。
「鮭の塩焼きだよ」
「毎日ですか?」
「うん、もう15年ぐらいかな」
「えっ、すごい……!」
それをきっかけに、小林は時折、焼き魚の話を振ってくるようになった。
ある金曜日、小林が言った。
「今度、僕の彼女の友達で、料理好きの子がいるんですけど……よかったら食事会、来ませんか?」
断る理由もなかった。
人と鮭以外の話をするのも、たまには悪くないと思った。
その食事会で出会ったのが、春香(はるか)だった。
白いブラウスにベージュのスカート。
清楚な雰囲気の彼女は、自己紹介の時に「焼き魚、特に鮭の塩焼きが大好きなんです」と言った。
それだけで、良太の心はすっかり彼女に傾いた。
「どうやって焼いてるんですか?」と春香が聞くと、良太は少し照れながら、丁寧に答えた。
「皮を下にして、最初は強火で2分、それから中火で6分ぐらいかな。塩は前の晩に軽くふって、キッチンペーパーで余分な水分を拭いておくと、ふっくら焼けるよ」
春香は目を輝かせて聞いていた。
「それ、絶対おいしいですね。今度、食べさせてください!」
その約束はすぐに果たされた。
日曜の朝、彼の小さなアパートに彼女が訪ねてきた。
グリルに火を入れ、時間を見ながら鮭を焼く。
香ばしい香りが部屋に広がると、春香が「この香りだけで幸せ……」とつぶやいた。
食卓に並べたのは、白米、味噌汁、そして鮭の塩焼き。
二人で無言で箸を進める。
ふっくらとした身に、香ばしい皮。
春香は一口ごとに、うれしそうに微笑んだ。
「おいしい……これ、毎朝食べられる人、うらやましいな」
その言葉が、良太の胸に深くしみた。
それからというもの、彼の食卓にはたまに春香が座るようになった。
少しずつ、季節の漬物が増えたり、卵焼きが添えられたりしたけれど、鮭の塩焼きは、いつも真ん中にいた。
やがて、二人は一緒に暮らすようになり、小さな台所に立つのも二人になった。
鮭を焼く香りが、また新しい思い出を連れてくるようになった。
良太は思う。
——焼き魚の香りは、記憶とつながっているのかもしれない。
母のぬくもりも、春香の笑顔も、すべてこの香りが運んできた。
そして、明日の朝もまた、鮭を焼く。
焦げ目が少しついた、いつも通りの一切れを。