夏の終わり、商店街のはずれにある古びた食料品店「まるや商店」では、毎年恒例の“在庫一掃セール”が始まっていた。
棚の奥から引っ張り出された商品の中に、ひときわ目立つオレンジ色の缶詰があった。
金色のふたに、レトロな字体で「特選みかん」と書かれたそれは、もう製造元すら無くなってしまった老舗のものだった。
店主のまさおは、今年七十歳を迎えた。
物静かで無口な彼が、この缶詰にだけは特別な思い入れがあることを、町の誰も知らない。
缶詰は一本百円。
だが、その「特選みかん」だけは、棚に並べず、そっとレジ裏の箱の中にしまっていた。
ある日、店に小さな女の子が母親と一緒にやってきた。
ランドセルを背負ったその子は、レジ前の小さな台に手をかけ、じっとまさおを見上げて言った。
「みかんの缶詰、ありますか?」
まさおは少し驚いてから、無言でうなずいた。
母親があわてて「あ、ごめんなさい、おじいちゃんに無理言っちゃだめよ」と女の子をたしなめたが、まさおは首を横に振った。
「あるよ、ちょっと待ってな」
彼はレジ裏の箱から、例の「特選みかん」をひとつ取り出した。
缶はすこし埃をかぶっていたが、丁寧に布で拭き、レジに置いた。
「これ、ちょっと特別な缶詰なんだ」
「すごくおいしいの?」と女の子が目を輝かせた。
「……うん、昔、母ちゃんが風邪のとき、よくこれを開けてくれたんだ。甘くて、つめたくて、元気が出たよ」
「じゃあ、いま、ママにぴったりだね!」
母親は照れくさそうに笑いながら、財布から百円玉を出した。
だがまさおは受け取らず、「これはうちのサービスだ」と手を振った。
その夜、店を閉めたあと、まさおは一人、木製の椅子に腰かけて、お湯を沸かしていた。
棚に残る最後の「特選みかん」の缶詰を見つめながら、昔のことを思い出していた。
彼がまだ中学生だったころ。
病弱だった母が高熱で寝込んでいた。
父は戦後すぐに亡くなり、家にはまさおと母のふたりきり。
医者に診せる余裕もなく、ただ寝かせて、水を与えるしかできなかった。
そのとき、近所の食料品店の奥さんが、小さな包みを持って訪ねてきた。
中に入っていたのが、「特選みかん」の缶詰だった。
「お母さんに、これを食べさせてあげて」
その一言で、どれほど救われたか。
母はその夜、少し微笑んで、「おいしいね」と言って、ひとつぶだけ食べて、また眠った。
それからまさおは、毎年欠かさず、その缶詰を少しずつ買い続けた。
製造が終わってからも、倉庫で見つけた在庫を、大事に保管していた。
それは「自分が誰かにできる、ささやかな優しさ」の象徴だった。
数日後、再び女の子が店を訪ねてきた。
「このまえのみかん、ママ、泣きながら食べてたよ。“子どものころ、病気のときに、おばあちゃんがくれた味だ”って」
まさおは、静かにうなずいた。
「そうか。じゃあ、もうひとつ持っていくか?」
女の子は笑顔でうなずいた。
そして、「まただれかが病気のときに、これあげたいな」と言った。
まさおはその言葉を聞いて、レジ裏の箱から、もう一缶、手に取った。
残りは、あと三つ。
だけど、それでいい。
誰かが、やさしさを次に渡してくれるのなら。