駅から少し離れた静かな商店街の一角に、木の看板が優しく揺れる小さな店があった。
店の名前は「ひなた」。
その名の通り、陽だまりのような暖かさを持つ空間だ。
しかしこの店には、少し風変わりなこだわりがあった——靴下しか置いていないのである。
店主は三浦由香(みうら・ゆか)、三十六歳。
元は都内のアパレルブランドで商品開発をしていたが、五年前、突然その仕事を辞め、地元のこの町に戻ってきた。
そして、たった一人でこの靴下専門店を始めたのだった。
「なぜ靴下だけ?」と何度も聞かれた。
しかし、由香の答えはいつも同じだった。
「一番、心が出ると思うんです。靴下って。」
聞いた人はたいてい「変わってるな」と笑ったが、彼女の目はいつも真剣だった。
由香のこだわりは、素材から始まる。
奈良の工場で丁寧に織られた綿100%のもの、山形の羊毛を使った保温性の高いもの、また、地元の草木で染めた草木染め靴下も並ぶ。
履き心地だけでなく、履いた人の一日が少しだけ良くなるように——そんな願いを込めて仕入れ、時には自分でも縫っている。
店を始めたきっかけは、祖母の一言だった。
「足元が冷えると、心まで冷えるのよ。」
病床にいた祖母の足に、自分が選んだ柔らかなウールの靴下を履かせたとき、祖母はふっと微笑んだ。
そのときの温もりが、今も忘れられない。
靴下は、誰にも見られない部分だ。
それでも、そこに気を配れる人は、きっと自分にも他人にも優しい。
そう信じて、彼女は今日も丁寧に靴下を並べる。
ある日、一人の青年が店に入ってきた。
大学生らしき彼は、スニーカーにくたびれた白い靴下を履いていた。
「…何か、探してるの?」
「就活で、面接に行くんです。でも、どんな靴下がいいのか分からなくて。」
由香は微笑んだ。
「大事な日ですね。」
彼女は黒のリブ編み靴下を差し出した。
見た目は地味だが、履き心地は抜群で、汗をかいても蒸れにくい。
「あなたが緊張していても、足元は静かに支えてくれる靴下です。」
青年はその言葉に少し驚いた顔をしたが、素直に頷いた。
そして翌週、再び店を訪れ、「内定もらえました」と笑顔を見せた。
そんなふうに、この店には誰かの小さな転機がそっと置かれていく。
ある日は冷え性に悩む老婦人が、またある日は登山を趣味とする青年が、そして時には恋人へのプレゼントを選ぶ女性が——。
「足元から、暮らしは変わる。」という由香の信念は、少しずつ町の人たちの中に広がっていった。
店の隅には、由香が趣味で書いている「靴下エッセイ」が置かれている。
そこには、靴下の歴史や素材の話、そして「心をあたためる」靴下たちのことが綴られている。
読み終えた誰もが、きっと少し足元を見つめ直す。
閉店後、由香は店の照明を落とし、手縫いの作業を始めた。
次は、友人の赤ちゃんのために編む靴下だ。
小さくて、柔らかくて、未来の一歩を包むためのもの。
——目に見えないところに、想いを込める。
それが、彼女が靴下に込めた哲学だった。
そして明日もまた、誰かの足元に、ささやかなぬくもりを届ける。
靴下屋「ひなた」の午後は、そうして今日も静かに暮れていくのだった。