林檎坂(りんござか)という名前の小さな町があった。
坂道の両脇にはりんごの木がずらりと並び、春には白い花が風に舞い、秋には赤く実った果実の香りが空気を染めた。
その町に、佐々木実(ささき・みのる)という老人がひとりで暮らしていた。
彼は元教師で、町の小学校で長く国語を教えていた人だった。
定年後は畑仕事と本の整理、そして何より――りんご作りに夢中になった。
実のりんご畑は町の北側、少し高台にある。
小さな段々畑のように並んだ木々は、すべて彼が若いころから育ててきたもので、一本一本に名がついていた。
「あかね」「ふじこ」「みどり」「せいじ」……どこか人の名前のようで、昔教え子たちに呼ばせていた名残だった。
実がりんごを好きになったのは、小学一年のころ。
体が弱く、学校をよく休んでいた彼に、祖母が「これを食べれば元気になるよ」と渡してくれたりんごの味が、いまでも忘れられない。
みずみずしくて、すこし酸っぱくて、でも甘くて――そのひとくちが、まるで春風みたいだったのだ。
やがて教員になり、家庭を持ち、子を育て、退職し、ひとりになっても、実はりんごを育て続けた。
町の人たちは、彼を「りんご先生」と呼んだ。
夏の終わりには子どもたちが畑に手伝いに来て、秋には収穫したりんごでジャムやパイを作り、冬にはりんごの木に藁を巻いて春を待つ。
ある年の秋のこと。
町に若い女性が引っ越してきた。
名前は沙月(さつき)。
都会での生活に疲れ、田舎での暮らしを求めて林檎坂に来たという。
彼女はスーパーで実と出会った。
りんごの山を前に悩んでいた沙月に、実がそっと話しかけた。
「食べごろは、この子だよ。見てごらん、皮に小さな斑点があるだろう?これは“甘みの証”なんだ」
その日から沙月は、週に一度、実の畑を訪ねるようになった。
草むしりを手伝い、剪定の方法を教わり、そしてなにより、木々ひとつひとつに名をつけて呼ぶ実の姿に、どこか懐かしさを覚えた。
「なんで名前をつけてるんですか?」と沙月が聞いたことがある。
実は少し照れたように笑って答えた。
「りんごも、生きてる。ひとつひとつ、性格がちがう。話しかけてるうちに、名前で呼びたくなったのさ」
冬が来るころ、実は体調を崩した。
町の人たちは皆心配し、畑の手入れは沙月が代わりに行った。
彼女は、りんごの木に手を当て、そっと語りかけた。
「せいじ、今年もよくがんばったね。実さんも、がんばってるよ」
春が来るころ、実はゆっくりと回復した。
庭先に咲くりんごの花を眺めながら、彼は沙月に言った。
「君が来てくれてよかったよ。りんごも、私も、元気をもらった」
その年の秋、町では小さな「りんご祭」が開かれた。
町の人たちが集まり、沙月が作ったジャムやタルトを味わい、子どもたちは実の畑で採れたりんごをその場でかじった。
赤く実ったりんごは、まるで灯りのように、みんなの顔を照らしていた。
林檎坂は、今日も静かに坂をのぼってゆく風のなか、甘くすっぱい香りに包まれている。
そして、りんごが好きな人たちの小さな物語は、これからもつづいていく――。