小さな港町で育った遥(はるか)は、物心ついたころから海が好きだった。
朝、登校前に防波堤で潮風を浴び、放課後には浜辺で貝殻を拾った。
夏休みになると、町外れの小さな水族館で開かれるイルカショーを、何度も何度も繰り返し観た。
ジャンプのタイミング、尾びれの振り方、飼育員とのアイコンタクト。
イルカの動きひとつひとつに目を凝らし、「どうしてこんなに楽しそうなんだろう?」と胸を躍らせた。
特に目を奪われたのは、イルカに指示を出す調教師の女性の姿だった。
まるでイルカと心で話しているように見えたのだ。
「私も、ああなりたい」
遥が本気でそう思ったのは、小学五年の夏だった。
それからというもの、進路はただ一つ。
水族館で働き、イルカの調教師になること。
高校では生物の授業に真剣に取り組み、大学では海洋生物学を専攻。
授業のない日には、ボランティアとして海洋施設や水族館の裏方を手伝い、バケツ洗いや餌の準備、飼育日誌の記録まで積極的にこなした。
だが現実は甘くなかった。
「調教師は狭き門だからね。まずは飼育スタッフとして経験を積むしかないよ」
就職活動中に受けたアドバイスは、どこも似たようなものだった。
それでも遥は諦めなかった。
関東の大きな水族館の採用試験を受け、ついに飼育スタッフとして内定をもらった。
初めて配属されたのはアザラシ担当だった。
イルカには、まだ遠い。けれど遥は前向きだった。
どの動物にも、学ぶべき生態や性格がある。
そして調教師になるには、まず「信頼される飼育員」であることが必要なのだと、わかっていた。
早朝からの餌やり、排泄物の処理、海水タンクの点検、地道な作業が続いた。
体力も必要だし、冬の冷たい水に手を突っ込む日もある。
それでも遥は毎日ノートを取り、アザラシたちの変化を記録し続けた。
半年が経ったころ、上司から呼び出された。
「来月から、イルカ担当に異動だ」
言葉を聞いた瞬間、遥は言葉を失い、胸の奥から熱いものがこみ上げた。
イルカ担当として最初に教えられたのは、「信じること」だった。
イルカは非常に頭が良く、人の感情に敏感だ。
機嫌が悪い日、焦っている日、嘘をついた日、すべて見抜かれる。
「無理に笑うより、素直に向き合うほうがいいよ。イルカには嘘、通じないからね」
先輩の調教師がそう言ってくれた。
以来、遥はイルカの目をまっすぐ見るようになった。
餌を与えるときも、遊ぶときも、練習するときも、心の中で「ありがとう」「楽しいね」「一緒にがんばろう」と声をかけるようにした。
最初は遥に懐かなかった若いオスのイルカ、ナギが、ある日ぽちゃんと水しぶきをかけてきた。
いたずらのようで、どこか甘えるような仕草だった。
「ナギ……もしかして、笑ってる?」
それからというもの、ナギとの距離は急速に縮まった。
名前を呼ぶとそばに来てくれる。
指を鳴らすと、ジャンプの練習を始める。
何より、目が合ったときの澄んだ表情が、心に沁みた。
ついに、新人調教師としての初舞台が決まった。
緊張と喜びが入り混じる中、遥はナギにそっと語りかけた。
「緊張してるけど、大丈夫。あなたとなら、できる気がするよ」
ショーの当日、観客席には遥の両親の姿もあった。
太鼓の音とともにナギがジャンプし、水しぶきをあげる。
遥が手を振ると、ナギも尾びれを打ち返した。
見事な演技に、拍手と歓声が広がった。
ショーの終わり、遥はナギの背にそっと手を当てた。
「ありがとう。あなたが信じてくれたから、ここまで来られたんだ」
海のように深く澄んだ目が、静かに見つめ返してきた。
言葉はなくても、そこには確かに心が通っていた。
夢は、まだ始まったばかりだった。
潮騒に耳を澄ませながら、遥は今日もイルカと語り合う。