春先、陽だまりの縁側に腰を下ろして、千夏は一粒のあられを口に運んだ。
ぱりっと軽やかに砕け、甘辛い醤油の風味が広がる。
幼い頃から変わらず好きな味だ。
千夏の実家は、商店街のはずれにある小さな米菓子店「藤乃屋」。
祖父が始め、父が継いだその店で、千夏もよく手伝いをしていた。
看板商品は手焼きのあられ。
小粒で、焦げ目のついた醤油味が評判だった。
だが数年前、父が体調を崩し、店を畳むことになった。
「時代だな」と苦笑する父に、千夏は何も言えなかった。
就職して都会へ出た千夏は、ビル街のカフェで働きながら、あられを見かけるたび懐かしさに胸を詰まらせた。
けれど、買って口に入れても、あの味には届かない。
――あの店のあられが、食べたい。
その思いが募ったのは、父の三回忌を終えた春だった。
「お母さん、あの焼き型、まだ残ってる?」
帰省した折、千夏がそう尋ねると、母は目を丸くした。
「まさか、焼く気?」
「うん。自分で作ってみようかなって」
「まあ……あれ、コツがいるのよ。お父さん、ずっと研究してたもの」
その晩、蔵の奥から古びた焼き型を引っ張り出した。
焦げの跡が残る鉄製の型。
持つと、どっしりと重い。
千夏は、昔の父の手元を思い出しながら、試しに焼いてみた。
――焦げた。
――ひび割れた。
何度やっても、うまくいかない。
それでも、焼き立ての香りに包まれていると、不思議と心が落ち着いた。
春から夏へ。
仕事の休みごとに通い、試作を繰り返した。
母は、あきれ顔で台所を貸してくれた。
そして、ある日。
焼き上がったあられを噛んだ瞬間、千夏は目を見開いた。
「……これだ」
かつての店の味、その記憶が舌に蘇った。
その秋、千夏は思い切ってカフェを辞め、実家に戻った。
母は「本気なのね」と、あきらめ半分、応援半分で笑った。
そして今日。
商店街の片隅、元の店舗を借りて「ちいさなあられ屋・ちか」を開いた。
店の名は、子どもの頃の千夏の呼び名から取ったものだ。
オープン初日、客は数人。
けれど、誰もが「懐かしい味ね」と笑って帰っていく。
「この味、また食べられて嬉しいよ」
そんな言葉を聞くたび、千夏は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのだった。
ぱり、とあられを噛む音が、商店街に静かに響く。
千夏は思う。
――きっと、あられって、誰かの心をつなぐ味なんだ。
今日も、あられ日和だ。