セットの向こう側

面白い

高梨結衣は、小さな町の高校に通う二年生。
特別、何かに夢中になれることもなく、毎日をなんとなく過ごしていた。
そんな彼女が変わるきっかけは、ふとした偶然だった。

ある日、友人に誘われて観に行ったテレビドラマの公開ロケ。
人気俳優が来るとあって、現場は大勢の見物客でにぎわっていた。
けれど、結衣の目を奪ったのは俳優ではなかった。
カメラの後ろで黙々と動く、黒いTシャツ姿のスタッフたち。
木の板にペンキを塗る人、偽物の壁にレンガ模様を描く人、砂利を撒き、看板を立て、道端の雑草までも配置している。

「…すごい。」

結衣は釘付けになった。
まるで何もない場所に、一瞬で“世界”が出来上がっていく。
誰も気に留めない脇役のようなその人たちが、ドラマの空気を作っているのだと知った。

帰宅後、結衣は夢中で“美術スタッフ”について調べた。
セットデザイン、小道具、装飾、背景美術…。
どれも、知らなかった世界ばかりだった。

「私、これになりたい。」

そう口に出した時、自分でも驚いた。
でも、胸の奥に灯った熱は本物だった。

両親に話すと、「ドラマのスタッフ?地味だし、大変なんじゃない?」と心配された。
でも、結衣は譲らなかった。

翌週、地元の映像専門学校のオープンキャンパスに参加した。
そこでは実際に美術スタッフを目指す学生たちが、模擬セットを作っていた。
参加者向けに体験ワークショップもあり、結衣は自分の手でミニチュアのセット作りに挑戦した。

「手を動かすって、楽しいんだ。」

手が絵の具だらけになっても、夢中で作業を続けた。
講師の先生に「君、向いてるかもな」と言われた時、結衣の目に涙が滲んだ。

それからの彼女は、目の色が変わった。
美術の授業では一番前に座り、課題では人一倍凝った作品を提出した。
放課後は図書館で美術関連の本を読み漁り、休日には都内の美術展やセット展示にも足を運んだ。

夏休み、思い切って都内の映像会社に「インターンをさせてほしい」と手紙を書いた。
返事は予想通り、あっさりと断りだった。
でも結衣はあきらめなかった。
何度もメールを送り、ついに「一日だけ現場見学に来てもいい」と返事をもらった。

当日、結衣は早朝からロケ地に向かった。
現場で見たのは、汗だくになりながらも、黙々と作業する美術スタッフたちの姿だった。
先輩スタッフの指示で、ペンキ缶を運んだり、床にテープを貼ったり…ほんの些細な仕事でも、結衣は胸が高鳴った。

その日の帰り際、チーフ美術の男性が言った。

「君、よく動くな。美術ってのはな、カメラに映らない場所にも気を配るんだよ。全部が芝居の空気を作るんだから。」

その言葉は、結衣の胸に深く刻まれた。

――いつか、私もこの場所に立つ。
心に強く誓った瞬間だった。

高校卒業後、結衣は映像美術の専門学校に進学。
厳しい実習の日々に何度も心が折れかけたが、あの日のロケ現場を思い出すたび、前を向き続けた。

そして数年後、結衣は憧れだったドラマの美術スタッフとして現場に立つ。
誰も気づかないかもしれない。
でも、確かに“世界”を作るのは、彼女たちだ。

セットの向こう側にいる美術スタッフ。
その一員になれたことが、結衣の誇りだった。