幼いころ、千尋は母の作るキャラメルが大好きだった。
白砂糖と生クリームを鍋で煮詰め、ほんの少しの塩を落とす。
甘さとほろ苦さが混ざり合った、あの黄金色のかけらは、母の手のひらの温もりそのものだった。
「キャラメルはね、焦がす寸前がいちばん美味しいの」
母はそう言って、何度も木べらを回した。
けれど、千尋が十歳の冬、母は突然この世を去った。
心臓の病だった。
台所に立つ母の後ろ姿は、千尋の心の奥に鮮やかに焼きついて、けれどそれは二度と戻らない記憶になった。
それから十五年。
千尋は製菓学校を出て、洋菓子店「プティ・ルミエール」に勤めていた。
パティシエとして腕を磨く日々の中でも、彼女はふとキャラメルの香りに引き寄せられる。
「またキャラメル試作してるの?」
同僚の結城が苦笑する。
「うん、まだ納得できなくて」
何度もレシピを変え、煮詰める時間を秒単位で調整し、塩の量を微妙に変えた。
それでも、あのころ母が作ってくれた味には届かない。
焦がす寸前の、あの儚く深い甘さを思い出すたび、心がざわつく。
ある日、店に一人の老婦人が訪れた。
「このキャラメル、どなたが作ったの?」
それは、千尋が前日にこっそり作った試作品だった。
「わたしです」
老婦人はにこりと微笑んだ。
「懐かしい味。昔、友達がよく作ってくれたの。焦がし加減が絶妙で…」
「それって…」
胸の奥に微かに火が灯った。
老婦人は続けた。
「その子の名前は、奈津子さんって言ったかしら」
奈津子。
それは、母の名前だった。
千尋は気がつけば、老婦人に頭を下げていた。
「ありがとうございます」
自分の作ったキャラメルが、母を知る人の記憶を呼び覚ましたことが、何より嬉しかった。
その晩、千尋は店に残り、もう一度キャラメルを煮た。
母のレシピノートを、もう何度目かわからないほど開く。
焦がす寸前。
手を止めるタイミングは…感覚だった。
木べらをゆっくり回し、琥珀色に変わる一瞬。
千尋はふと、母が微笑んでいるような気がした。
静かに火を止め、塩を一つまみ。
キャラメルを口に入れると、ほろ苦さの奥に、やさしい甘さが広がった。
それは、ようやく辿り着いた味だった。
翌朝。
千尋は結城にキャラメルを差し出した。
「これ、商品にしてもいい?」
結城は目を丸くし、そして笑った。
「もちろん。これ、絶対人気出るよ」
そのキャラメルは、店の看板商品になった。
パッケージには小さく「焦がす寸前の奇跡」と書かれた。
そして千尋は心の中で、そっとつぶやく。
「お母さん、ありがとう。私、やっとここまで来たよ」
キャラメルの優しい甘さが、千尋の胸をあたたかく満たしていた。