大和(やまと)は子どもの頃からカブトムシが好きだった。
朝の森に入り、腐葉土の山を掘り返し、木の幹に蜜を塗ってはじっと待つ。
友だちがゲームやスポーツに夢中になる中、彼だけはカブトムシと向き合う時間に心を燃やしていた。
大人になった大和は、昆虫学を学ぶため東京の大学に進んだ。
しかし、研究室の仲間は蝶や珍しい外来種に夢中で、カブトムシを専門にする者はほとんどいなかった。
「カブトムシなんて夏休みの自由研究レベルだろ?」と笑われたこともある。
それでも大和は、かつて祖父が話してくれた“森の王者”という言葉を信じ、研究を続けた。
彼の情熱はやがて、人工繁殖や生態調査の分野で認められるようになった。
特に、日本固有のカブトムシが減少している原因を探るため、山奥の森で長期間調査を続けた功績は大きかった。
山中で一人、テントを張っては毎晩カブトムシの行動を記録する。
雨の日も風の日も、彼は森にいた。
ある年の夏、彼は岐阜の奥地で一匹の特異なカブトムシを見つけた。
通常よりも大きく、角が三本に分かれていた。
それは図鑑にも載っていない未確認の個体だった。
大和はそれを「幻王(げんおう)」と名付け、研究対象とした。
しかし、彼は決して捕まえず、自然の中で観察を続けた。
その様子が地元の新聞に載り、“カブトムシ博士”として名が広まった。
すると、子どもたちが彼のもとに集まり始めた。
「先生、カブトムシってどうしたら強くなるの?」
「森でどうやって見つけるの?」大和は子どもたちと森に入り、一緒にカブトムシのことを学んだ。
彼の話は決して難しい言葉を使わず、むしろ夢と好奇心に満ちていた。
気づけば、大和は地域の自然教室の講師を頼まれるようになった。
彼が伝えたのは、単にカブトムシの知識だけではなかった。
「森に生きる命は、みんなつながっている。だから、僕らも大切にしなくちゃいけないんだ」その言葉は、子どもたちだけでなく、大人たちの心にも届いた。
ある夏の日、大和は再び“幻王”と出会った。
木漏れ日の中、そのカブトムシは堂々と幹にとまっていた。
大和はそっと微笑み、写真も撮らず、ただ見つめた。
「ありがとう。お前のおかげで、俺はこの森に帰ってこられたよ」
カブトムシが好きだった少年は、いつしか森を守る大人になっていた。
今も彼は、森と子どもたちの笑顔の中で、“カブトムシ博士”と呼ばれ続けている。