美咲(みさき)が一人暮らしを始めたのは、大学進学の春だった。
木造二階建ての古いアパート。
築五十年は経っているというが、家賃が安く、通学に便利な場所だったため即決した。
最初の数日は何も起きなかった。
古い建物特有の、木がきしむ音も気にならない程度だった。
しかし、ある夜。
深夜一時を過ぎたころ。
美咲がベッドでスマホを眺めていると――
「ピンポーン」
インターホンが鳴った。
びくり、と心臓が跳ねた。
こんな時間に誰が…? 間違いだろうか。
画面付きではない、古びたインターホン。
応答するか迷ったが、美咲は寝たふりを決め込んだ。
数分後。
「ピンポーン」
また鳴った。
今度は少し長く。
何かのいたずらか? 怖くて、布団を頭までかぶる。
それでも、三度目の「ピンポーン」が鳴ることはなかった。
翌日。
大家に相談すると、「配線が古くて誤作動したんじゃないか」とのこと。
その言葉に、美咲も「そうか」と思い直した。
だが、奇妙なことはそれからも続いた。
深夜一時になると、決まってチャイムが鳴る。
一回だけの日もあれば、二回、三回鳴る日もある。
音が鳴るだけで、誰かが立っている気配はない。
インターホンの外には何もいない。
そして、ある晩。
どうしても気になった美咲は、チャイムが鳴る直前に玄関前に立ってみた。
深夜一時。
「ピンポーン」
鳴った。
目の前に、誰もいない。
だが――
玄関のドアに、うっすらと手形がついていた。
白い粉をこすりつけたような、細い指の跡。
美咲は、震える手でドアを閉め、鍵を何重にもかけた。
翌朝、手形は跡形もなく消えていた。
怖くなった美咲は、友人に泊まりに来てもらうことにした。
友人の千尋(ちひろ)は「大丈夫だって、変な気のせいじゃない?」と笑ったが、その夜。
二人がリビングで映画を見ていたとき。
また、チャイムが鳴った。
千尋が「私が見てくる」と立ち上がる。
だが、ドアを開けた千尋は、何も言わずに硬直した。
美咲が後ろから覗くと――
ドアの外に、女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪で顔は見えない。
ただ、うつむいたまま、右手だけを、そっとドアに伸ばしていた。
「入れて」
女が、か細い声で呟いた。
千尋が悲鳴を上げ、ドアを閉める。
美咲は力いっぱい鍵を閉め、チェーンをかけた。
ドアの向こうからは、ずっと「入れて」「入れて」「入れて」と女の声が響いていた。
翌朝、女の姿はなく、インターホンも壊れていた。
だが、美咲のスマホには見覚えのない番号からの着信履歴が残っていた。
深夜一時、三回。
番号は――自分の部屋の固定電話だった。
美咲の部屋には、固定電話など、つながっていないはずなのに。