町のはずれに、小さな苗木屋があった。
看板には「森の手仕事」と手書きで書かれている。
店主の名は志乃(しの)。
三十代の女性で、祖父の代から続く苗木屋を一人で切り盛りしていた。
彼女が育てるのは、街路樹に使われるケヤキや、庭に植えられるハナミズキ、果樹園向けの柿の苗。
春の朝、店先の木々に水をやりながら志乃は言う。
「木って、ちゃんと話を聞いてくれるんだよ」
子どものころ、志乃は人付き合いが得意ではなかった。
友達と話しても、気を使いすぎて疲れてしまう。
でも、祖父の苗木屋で土いじりをすると、不思議と心が落ち着いた。
芽吹いたばかりの若葉に声をかけると、風が枝先を揺らすような気がした。
その小さな応えが嬉しくて、彼女はずっと木と向き合い続けた。
大人になった志乃は、町に残ることを決め、祖父の店を受け継いだ。
だが、時代は変わり、町の人々は木に関心を持たなくなっていた。
「手間がかかる」「落ち葉が大変」
そんな声に、苗木はなかなか売れなかった。
それでも志乃は、手を抜かずに苗を育て続けた。
「木は、すぐに結果を求める人には向かない」
そう、祖父がよく言っていた。
芽が出て、根が張って、幹が太くなり、花が咲くまでに何年もかかる。
でも、その成長の一つ一つが、生きている証だった。
ある年の春。
店の前に、ひとりの青年がやってきた。
細身で、俯きがちな彼は、しばらく黙って苗を見ていたが、ぽつりと「木を育てたいんです」と言った。
志乃は微笑んだ。
「どんな木を?」
「……母が、桜が好きだったんです。庭に桜を植えたくて」
青年は、数か月前に母親を亡くしたばかりだった。
庭に桜を植え、母のことを思い出したいのだと言う。
志乃は、小さな山桜の苗を選び、手入れの仕方を丁寧に教えた。
「焦らなくていい。木はゆっくり、あなたの時間と一緒に育っていくから」
それからも青年は、何度か苗木屋に通った。
「葉っぱが茶色になってしまって」「根っこが心配で」
志乃はその度に、彼の手を取り、土の感触や葉の色を確かめさせた。
気づけば青年は、少しずつ表情が柔らかくなっていった。
半年後、青年は言った。
「桜、元気にしています。……僕も、少し元気になれました」
志乃は、静かに頷いた。
木は、人を癒やす力を持っている。
でも、それは木のために手をかけた人だけが、気づけるものなのだ。
その日、志乃は店の前に新しい札を立てた。
『木の育て方、相談に乗ります』
それは、苗木屋ではなく、“森を編む”仕事の始まりだった。
志乃は、木と人とを結ぶ糸を紡ぎながら、ゆっくりと町に新しい風を届けていった。