大地(だいち)は、子どものころから魚が好きだった。
とりわけイワシ。
小ぶりで、銀色に光るその姿に、どうしようもなく心惹かれた。
初めて釣った魚がイワシだったこともある。
海辺の町に生まれ、港近くの祖父の家に預けられるたび、彼は防波堤で竿を振った。
群れをなして泳ぐイワシを一匹釣り上げたときの、あの手応え。
跳ねる体のぬめりと、冷たい海の匂い。
大地の中に、それはずっと残っていた。
高校を卒業した大地は、地元の水産加工会社に就職した。
イワシの缶詰や干物、煮干しを作る工場だった。
毎朝、港に水揚げされる新鮮なイワシを見るたび、大地の胸は高鳴った。
だが、次第に仕事は単なる「流れ作業」になった。
魚を並べ、機械に詰め、パックする日々。
釣り上げたときの感動など、遠い記憶の向こうに霞んでいった。
そんなある日、町に大きなスーパーが進出してきた。
地元の魚屋は次々と潰れ、加工場の売上も落ち込んだ。
会社ではリストラの噂が流れ、大地の部署も縮小された。
「イワシなんて、もう時代遅れだよ」
同僚がそう吐き捨てたとき、大地は思わず言い返した。
「イワシは、俺の好きな魚だ。こんなうまい魚、他にない」
だが、誰も耳を貸さなかった。
ある晩、大地は祖父の家を訪ねた。
港に面した古びた家。
かつては祖父も漁師で、今は引退して畑をいじっている。
「おじい、イワシって、やっぱり売れないもんなのか?」
大地が尋ねると、祖父は笑った。
「お前、本気でそう思ってんのか。イワシは、昔から庶民の魚だ。時代がどう変わっても、うまいもんはうまい。問題は、売り方だ」
祖父は、大地を台所に連れていった。
そこで、シンプルな塩焼きと、オイルサーディン、イワシのつみれ汁を作ってくれた。
「これが、うまくないはずがない」
食べてみると、どれも驚くほどに美味しかった。
「……これ、売れるかもしれない」
大地の中に、何かが灯った。
翌日、大地は思い切って会社を辞めた。
そして、小さな屋台を始めた。
イワシ専門の屋台。
漁師から直接仕入れたイワシを、焼いたり、フライにしたり、つみれにして提供する。
場所は、港の朝市。
最初は誰も見向きもしなかった。
だが、ある日、観光客の一人がSNSに「港で食べたイワシ、最高だった」と投稿したことで、状況が変わった。
少しずつ客が増え、週末には長い列ができるようになった。
「イワシ? うまいんだよ、ここの」
そんな声が、港に広がった。
大地は気づいた。
好きだという気持ちを、諦めずに形にすれば、誰かに伝わるのだと。
秋の空に、イワシ雲が浮かぶ朝。
大地は港で、今日もイワシを焼いている。
心から愛する魚とともに、自分の人生を泳ぐように。