大阪の下町で、遥(はるか)は小さな唐辛子専門店「赤のひとかけ」を営んでいた。
カウンターだけの店には、乾燥唐辛子、オイル漬け、粉末、ペースト、果ては唐辛子を使ったチョコレートまでが並び、壁一面が赤と深紅で埋め尽くされている。
遥は辛いもの好きというより、唐辛子そのものに魅せられていた。
高校時代、修学旅行で訪れた京都の料亭。
ふと添えられた真っ赤な一味唐辛子が、香りと共に彼女の心を射抜いた。
味でも辛さでもなく、その色、その存在感。
以来、唐辛子に惹かれ、大学では農学部に進み、世界中の唐辛子品種を研究した。
大学卒業後、遥は安定した食品メーカーに就職したが、心のどこかでくすぶっていた。
「自分の手で唐辛子の魅力を伝えたい」と。
数年勤めた末、思い切って退職し、この小さな専門店を始めたのだった。
客の大半は辛いもの好きな常連だ。
だがある日の夕方、見慣れぬ青年が店に入ってきた。
細身で、目だけがやけに真剣だった。
「唐辛子、あんまり得意じゃないんですけど……料理に使ってみたくて」
遥は少し驚きつつ、笑った。
「大丈夫。辛さだけが唐辛子じゃないよ」
青年の名前は拓海(たくみ)。
フレンチの修行をしているという。
辛さは苦手だが、香りや風味に興味があったらしい。
遥はメキシコ原産の「パシージャ」、わずかにチョコレートのような香りのする乾燥唐辛子を差し出した。
「これは煮込みに入れると、深みが出るんだ」
拓海は目を丸くし、丁寧に受け取った。
それから、彼は毎週のように店に通った。
遥も唐辛子の歴史や特性を、まるで秘密を分け合うように語った。
辛さだけじゃない、甘み、香り、酸味――唐辛子の奥深さに、二人は少しずつ惹かれていった。
ある夜、拓海が言った。
「遥さん、僕、唐辛子のソースを作りたいんです。甘くて、香り高い、でもほんの少しだけ刺激があるやつ」
遥は頷いた。
「やってみよう」
閉店後、二人はキッチンに立ち、さまざまな唐辛子を刻み、煮詰め、香りを確かめた。
試作と失敗を繰り返す夜が続いた。
ついに、ほのかに甘く、カカオとベリーの香りが漂い、最後にふわりとピリッとするソースが完成した。
拓海は目を輝かせた。
「これだ……」
遥も心から嬉しかった。
彼女が愛した唐辛子が、新しい形で生きる瞬間に立ち会えたから。
数か月後、拓海は自身の小さなビストロをオープンした。
看板メニューは、唐辛子ソースを使った鴨肉のロースト。
遥の店には、今日もそのソースを求めて客が訪れる。
唐辛子はただ辛いだけじゃない。
人と人とを、情熱と香りで結ぶ、不思議な魔法を持っている。
遥は、赤い唐辛子を指で転がしながら、微笑んだ。
「やっぱり、唐辛子って面白い」