小さな町の図書館に、謎めいた本があった。
表紙には「元素と人類」とだけ書かれ、誰が借りたのかもわからない古びた本。
中学二年の圭介は、たまたま手に取ったその本に心を奪われた。
見たこともない周期表、化学式、そして原子の構造図。
無数の粒が集まり、形を成し、性質を変える。
圭介はその仕組みに強く惹かれた。
それから圭介は、図書館通いを始めた。
化学、物理、生物――手に入るだけの本を読み漁った。
学校の授業では満足できず、実験ノートを自分で作り、台所の道具を借りて小さな実験も始めた。
塩と水を混ぜ、電池で電気を流し、わずかに泡が出るのを眺めて「これが水の電気分解だ」と胸を躍らせた。
高校に進学すると、圭介の知識はさらに深まった。しかし周囲の目は冷たかった。
「また理科室かよ」「勉強オタク」
そんな声にも、圭介は耳を貸さなかった。
自分が夢中になれるものがある。
それだけで十分だった。
ある日、科学部の先輩が、ふと呟いた。
「研究者になりたいなら、論文を書けよ」
圭介はその言葉を聞き、何かが弾けるような感覚を覚えた。
自分の好きなことを、誰かに伝える方法がある。
それが論文だと知った時、圭介はすぐに行動に移した。
高校生なりの簡単な実験――たとえば、市販の洗剤が水質に与える影響を調べる。
水槽を使い、洗剤濃度と微生物の反応を記録した。
失敗も繰り返したが、まとめ上げたレポートは地元の科学コンテストで入賞した。
表彰式で、地元大学の教授がこう声をかけてくれた。
「君、本気で研究者を目指してるのか?」
圭介は、ためらいなく答えた。
「はい。いつか世界を変える発見がしたいんです」
教授は微笑んだ。
「なら、諦めないことだよ。研究は、99回失敗して1回成功する。その1回が、未来を動かすんだ」
その言葉は、圭介の胸に深く刻まれた。
やがて大学に進学し、研究室に入り、圭介は本格的に「科学者」としての道を歩き始めた。
朝から晩まで実験に明け暮れ、データと格闘し、時に失敗に打ちひしがれた。
思うように結果が出ない夜も、教授の言葉が背中を押した。
「あの1回」がきっと来ると信じて。
そして、大学4年のある春。
圭介は、長く挑戦してきた新素材の合成実験に成功した。
偶然かもしれない。
でもその偶然は、数え切れない失敗の上にあった。
「おめでとう」
同じ研究室の仲間がそう声をかけた時、圭介はガラス越しに試験管を見つめて思った。
これが、あの頃夢見た「未来」の始まりかもしれない。
研究者の道は長く、果てしない。
でも、だからこそ価値がある。
圭介は静かに拳を握った。
「俺は、科学で未来を変える」
その目は、ガラスの向こうに広がる、まだ見ぬ世界を見据えていた。