黒の粒の美学

食べ物

黒瀬翔子(くろせしょうこ)は、スパイス専門店「胡椒館(こしょうかん)」の店主だ。
東京・下北沢の路地裏にひっそりと構えるこの店は、看板も目立たず、通りすがりの人にはカフェかギャラリーのように見える。
それでも、一歩中に入れば、所狭しと並んだ瓶詰めのスパイスたちが香りで客を迎える。

だが、翔子の心を捉えて離さないのは、何百種類あるスパイスのなかでも「ブラックペッパー」だった。

「香り、辛味、粒の形、産地による違い…これほど奥深いものはないわ」

客がそう尋ねるわけでもないのに、彼女はつぶやくようにブラックペッパーへの愛を語る。
ミルで挽いた瞬間に立ちのぼる芳香、その一粒に凝縮された風土と時間、辛味の立ち上がり方の違い──それらを丁寧に語る翔子の表情は、まるで恋をしているかのようだった。

きっかけは、大学生の頃にバックパッカーで訪れたインド南部のケララ州だった。
市場で見かけた地元の女性が、土埃まみれの素焼きの器に黒々とした粒を盛っていた。

「これは…胡椒?」

と聞くと、彼女は微笑んでひと粒つまんで口に放り込むように促した。
噛んだ瞬間、鼻に抜ける鮮烈な香りと、舌の奥からじわりと広がる熱。
今まで知っていた市販の粉胡椒とは、まるで別物だった。

その衝撃は、翔子の味覚のすべてを書き換えた。

帰国後、彼女は食品メーカーを辞め、全国のスパイス農家や輸入業者を巡り歩いた。
そして三十歳のとき、ようやく「胡椒館」をオープンさせたのだった。

店の目玉は「ブラックペッパーのテイスティングセット」。
インド、スリランカ、ベトナム、カンボジア、マダガスカル…。
同じ黒胡椒でも、土地が違えば香りも風味も別物だ。
訪れる客は「こんなに違うのか」と驚き、リピーターになる者も多い。

そんなある日、ひとりの青年が訪れた。名を田島潤といい、料理人を目指す専門学生だった。

「ブラックペッパーが料理の主役になれるって、本当ですか?」

その問いに、翔子は少し笑った。

「もちろん。むしろ、ペッパーの引き立たない料理なんて、塩のない海みたいなものよ」

彼女は潤に数種類の胡椒を試させ、味の違いと料理の相性を丁寧に教えた。
潤は毎週のように通い、次第に翔子のもとで働くようになった。

ある日、潤が言った。

「僕、胡椒だけのフルコースを作ってみたいんです」

その無謀ともいえる提案に、翔子は少し目を丸くしたが、すぐに頷いた。

「いいわ。やってごらんなさい。だけど覚えておいて。胡椒は強いけれど、誇り高い脇役。主役にするには、相応の敬意が要るのよ」

潤は半年をかけ、前菜からデザートに至るまで、すべてにブラックペッパーを使ったコース料理を完成させた。
トマトの冷製スープにマダガスカル産の華やかなペッパー、メインのラム肉には力強いインド産を、デザートにはなんと、ホワイトチョコとカンボジア産の柑橘香のある胡椒を合わせた。

試食会の日、翔子は黙ってひと皿ひと皿を味わった。
最後の一口を飲み込んだあと、彼女は長く目を閉じ、ふっと笑った。

「あなた、もう立派な胡椒使いね」

潤はその日から店の奥に小さなキッチンを構え、週末限定で「胡椒の晩餐会」を開くようになった。

翔子のブラックペッパーへのこだわりは、ひと粒の香りから、ひとつの道へと姿を変えた。
そして、その黒い粒はまた、別の誰かの人生に香り立つ火を灯していく。