潮の香りがかすかに漂う、静かな港町。
その一角に、小さな暖簾が揺れる店がある。
白地に青い墨で「干物日和」と染められたその文字に、足を止める人は決して多くはないが、一度入った客の多くは、再びその扉をくぐる。
店主は、山本涼(やまもと・りょう)、三十五歳。
干物専門の定食屋を開いて三年目になる。
きっかけは、亡き祖母の朝食だった。
小学生の頃、夏休みに訪れるたび、祖母は縁側で炭を起こし、網の上に鯵の干物を乗せていた。
パチパチと脂が弾ける音。
しょうゆをひとたらししたときの香ばしさ。
暑い朝の空気と混ざったあの香りが、涼の原点だった。
だが、東京で働くうちに、そんな記憶も遠のいていった。
デザイン事務所に勤め、仕事に追われる日々。
コンビニ弁当と缶コーヒーで食事を済ませ、朝の魚の香りなど思い出すことすらなかった。
転機は、母の急逝だった。
葬儀のため十年ぶりに帰省した港町。
実家の台所で見つけた古びた干物網と、祖母の筆跡が残るレシピ帳。
そこには、鯵、カマス、ホッケ、金目鯛など、干物の種類と塩加減、干し時間、焼き方のコツがびっしりと書かれていた。
涼は思わず網を手に取り、庭で干物を焼いてみた。
脂がしたたり、煙がたちのぼる。
焼けた香りが鼻をくすぐり、幼い頃の記憶が一気によみがえる。
「これだ」と思った。
都会に戻っても、その香りが忘れられなかった。
誰かが作ったレールではなく、自分の手で人生を作りたい。
そう思ったとき、祖母と母の記憶をたどるように、干物の店を開く決意をした。
港町の空き家を改装し、厨房とカウンターを備えた十席ほどの定食屋にした。
朝は漁港で仕入れ、昼前には干し始める。
手作業で塩を当て、風と太陽に晒して干す。
焼くのは炭火。
焼き加減は、わずかな音と香りを頼りにする。
「香ばしく、じんわり、じっくり。」
これが涼の焼き方の信条だ。
メニューは日替わり。
鯵の干物定食、カマスの塩干し、さわらの西京漬け干し、たまに特別な「いかの一夜干し定食」など。
小鉢には地元野菜の煮物や酢の物、自家製のぬか漬け。
味噌汁の出汁は、前日の干物の骨から取る。
「懐かしい味がする」
「ここに来ると、ほっとする」
そう言って常連になる客も多い。
漁師の妻、出張帰りのビジネスマン、近くの保育士、そして一人旅の若い女性。
ある日、若い女性客がぽつりとつぶやいた。
「こんな干物、食べたことない。母の味とも、旅館の味とも違う。なんか…記憶が蘇る感じ」
涼は笑って答えた。
「干物ってね、未来の味じゃなくて、記憶の味なんです。焼くと、いろんなものが香りになって立ちのぼるんですよ」
干物には、保存食としての顔もある。
けれど涼にとって、それは「時間を閉じ込める料理」だった。
潮風の中で、太陽に晒されて静かに変化する魚たち。
その一切れに、祖母の手、母の優しさ、港町の記憶、そして涼の人生が詰まっている。
三年目の春、涼は新たに「夜定食」を始めた。
仕事帰りの人にも、あの香りを届けたくなったからだ。
今日もまた、あの暖簾が揺れる。
中から、炭火の煙と、じんわり焼ける鯵の香りが、夜の港町に漂い始めている。