陽の光が斜めに差し込むキッチンの窓辺で、佐伯美咲は今日もフォカッチャの生地をこねていた。
ベージュ色のリネンエプロンを身につけ、腕まくりをして、小麦粉とオリーブオイルの香りに包まれている。
生地の手触りが手のひらに心地よく、リズムよく力を込めては折り返す。
まるで、大切な記憶を何度も撫でているかのように。
彼女がフォカッチャを初めて焼いたのは、高校三年の春だった。
卒業間近、進路のことで親と衝突し、思い悩んでいたある日、ふと立ち寄った図書館で見つけたのが、古びたレシピ本。
ページの端がめくれたその本には、色とりどりのパンの写真が載っていて、その中でひときわ美咲の目を引いたのが、ローズマリーとオリーブが散りばめられた黄金色のパン——フォカッチャだった。
それを見た瞬間、「焼きたい」と強く思った。
なんの根拠もなかった。
ただ、そのしっとりとした表面と、素朴な風貌が美咲の心を掴んだ。
家に帰って、母の古いオーブンを引っ張り出し、小麦粉を量り、ドライイーストを溶かし、こねること二時間。
焼きあがったフォカッチャは形こそいびつだったが、香りはまさにあの写真のとおりで、母と一緒に食べたその味は、不思議と心を落ち着けてくれた。
「パン職人になるか、大学に行くか」——その日から、美咲の悩みはひとつの問いに変わった。
大学には行った。
親の意向を無視できず、美咲なりの妥協だった。
しかし、フォカッチャへの思いは捨てられなかった。
講義の合間にパン屋でアルバイトをし、早朝の仕込みに参加させてもらうようになった。
眠い目をこすりながらも、生地のふくらみや、焼き色のつき方に一喜一憂する日々。
特に、店長の「余ったオリーブを自由に使っていいよ」という一言で、美咲は再びフォカッチャ作りに夢中になった。
卒業後、就職はせず、パン職人の道を選んだ。
両親には最初こそ驚かれたが、何も言わずに送り出してくれた。
イタリアに渡り、トスカーナの小さな村で半年間修行した。
薪窯で焼くフォカッチャ、岩塩の粒、庭で摘んだばかりのローズマリー。
現地の「おばあちゃん先生」から教わったレシピは、すべて手書きのノートに書き留めた。
そして三年後、美咲はついに、地元・鎌倉でパン工房を開いた。
店の名前は《Pane Sole》(パーネ・ソーレ)——イタリア語で「太陽のパン」。
朝7時には焼きたてのフォカッチャが棚に並び、常連の老夫婦や子ども連れの親子が列を作る。
人気は、ローズマリーと黒オリーブの定番フォカッチャ。
表面には指でつけたくぼみが愛らしく、噛むほどにオリーブオイルの香りが広がる。
最近は、いちじくと胡桃の甘いフォカッチャや、トマトとバジルの夏限定バージョンも好評だ。
ある日、いつものように厨房で生地をこねていると、入り口のベルが鳴った。
振り返ると、懐かしい顔がそこにあった。
母だった。
「あなたのフォカッチャ、やっぱり一番好きだわ」
そう言って、母は焼きたてのパンを頬張る。
美咲は少し照れながら、黙ってそれを見守った。
フォカッチャは、彼女にとってただのパンではない。
自分を見つめ直すきっかけであり、人生を変えた道しるべであり、そして——母と分かち合える、小さな幸せの象徴だった。
午後の日差しがキッチンを照らすなか、今日もまた、美咲は生地をこねる。
オリーブとローズマリーの香りに包まれながら、自分の物語を静かに焼き上げていく。