朝霧がまだ残る京都の小径を、木村沙織は静かに歩いていた。
両手には手帳と万年筆、肩にはお気に入りのリュック。
彼女の趣味は寺巡り。
特に古いお寺の静寂の中に身を置くと、心のざわつきが洗い流されるような感覚になるという。
かつては都内の広告代理店で働き、分刻みのスケジュールに追われていた沙織。
派手なキャリアと高収入に満足していると思っていたが、ある日ふと立ち寄った鎌倉の小さなお寺で、心が深く揺れた。
「ここは、音がないんじゃなくて、音に気づく場所なんだ。」
住職がそう話したとき、沙織は初めて“静けさ”が耳をすますことによって感じられるものだと知った。
それ以来、彼女は週末ごとに寺を訪ね歩くようになり、やがて心の変化に従って仕事を辞めた。
現在はフリーランスのライターとして、寺にまつわる文化や人の物語を記録している。
この日訪れたのは、京都・東山にある「静心庵(せいしんあん)」という、観光案内には載っていない無名の寺だった。
知人の僧侶から紹介され、どうしても訪ねたくなったのだ。
門をくぐると、手入れの行き届いた苔庭と、竹林を背景にした小さな本堂が見えた。
人の気配はほとんどない。鳥のさえずりと、風に揺れる竹の葉が擦れる音だけが耳に届く。
沙織は境内の縁側に腰を下ろし、万年筆を取り出した。
目の前に広がるのは、ただの風景ではない。
時の流れの厚み、祈りの積層、人の営みが染み込んだ空間だった。
「こちらでお休みですか?」
声をかけてきたのは、年配の僧だった。
皺の刻まれた穏やかな顔と、丁寧な所作。
沙織は軽く会釈して、「この場所に惹かれて、書き留めておきたくて」と答えた。
「よろしければ、少しお話を。ここは五十年前に無住になったのですが、十年前に私が戻りましてね。何もないですが、静けさだけはたっぷりありますよ。」
二人は縁側に並んで座り、やがて沙織は自分が寺巡りを始めた理由、そこで得た気づきについて話した。
僧は黙って聞いていたが、ふと呟いた。
「寺は、誰かに教えを与える場所ではなく、耳をすます場所ですからね。」
その言葉は、沙織の中で深く響いた。
日が傾きはじめ、沙織はお礼を言って寺を後にした。
竹林の道を抜けながら、彼女は心の中で言葉を反芻する。
耳をすます――それは、自分と向き合うこと。
東京の喧騒、かつての自分の焦燥、すべてが今となっては遠い記憶のように思えた。
この旅の途中に記すメモは、やがて誰かに届くだろう。
読んだ人が、ふと立ち止まり、何かに気づくきっかけになるなら、それで十分だ。
彼女の「寺巡り」は、観光でも、信仰でもなく、「聴く」ための旅なのだ。
今日もまた一つ、静けさの中に、大切な音を見つけた。