タルトの時間

食べ物

午後三時のカフェには、特別な静けさがあった。
日差しがガラス越しに差し込み、木のテーブルに柔らかな影を落とす。
その席に、今日も律子は座っていた。

律子は三十五歳。都内の出版社で編集の仕事をしている。
きっちりしたスーツに身を包み、効率と納期の世界で生きているが、午後三時だけは別だった。
どんなに忙しくても、その時間は一切の予定を入れない。
彼女には「タルトの時間」が必要だった。

きっかけは、十年前に亡くなった祖母との思い出だった。

律子が小学生の頃、学校から帰るといつも祖母の家に寄っていた。
祖母は器用な人で、お菓子作りが得意だった。
中でも一番のお気に入りは、季節のフルーツをふんだんに使ったタルトだった。
苺、ブルーベリー、無花果、梨……どれも甘すぎず、サクサクの生地と香ばしいアーモンドクリームが絶妙に調和していた。

「お菓子はね、気持ちを込めないと美味しくならないのよ」

祖母はよくそう言いながら、手を止めずにタルトを作った。
律子は隣に座って、粉まみれの手で生地をこねる祖母の姿を、いつまでも見ていた。

祖母が亡くなったあと、律子はしばらくタルトが食べられなかった。
あの味がもう二度と味わえないと思うと、胸が締めつけられたからだ。

だがある日、偶然見つけた小さなカフェで、律子はふとショーケースの中に目を留めた。
そこに並んでいたのは、無花果のタルトだった。
祖母が最後に作ってくれた、あの秋の日の味。

恐る恐る口に運んだタルトは、記憶の味とは違っていた。
でも、不思議と涙が出た。

「大丈夫。私はちゃんと、思い出してる」

その日から、律子はタルトを食べるようになった。
どのカフェがどの季節にどんなタルトを出すか、細かくメモを取り、休日には評判の店を巡った。

そして今日も、彼女はお気に入りのカフェ「クレール」の窓際にいた。
注文したのは、桃のタルト。
薄くスライスされた白桃がバラのように美しく並べられ、艶やかなグレーズが光を受けてきらめいている。

ナイフを入れると、軽い音を立ててタルト生地が割れる。
ひとくち。
口の中に広がる甘さと酸味、サクッとした食感、アーモンドクリームのコク。
律子は思わず目を閉じた。

——おばあちゃん、元気だったら、今の私を見てなんて言うかな。

ふと、そんなことを思う。

「編集の仕事、大変でしょう?」

不意に声をかけられ、律子は目を開けた。
隣の席に、同じくタルトを前にした女性がいた。
年の頃は七十代くらい。
目元にやさしい皺を刻み、白いブラウスにグレーのカーディガンを羽織っている。

「ごめんなさい、聞こえちゃって。今、小声で“おばあちゃん”ってつぶやいてたから」

律子は少し笑って、小さく頷いた。

「ええ、編集者なんです。子どもの頃に、祖母とよくタルトを作ったんです。…だから、こうして時々、思い出しながら食べてるんです」

その女性は微笑んだ。

「私もね、孫と一緒にタルトを作るの。きっと、そのおばあさまもあなたのこと、今も見守ってるわよ」

その一言に、律子の胸の奥に温かいものが灯った。

カフェを出たあと、律子はスマートフォンを取り出し、祖母が生前使っていたレシピノートの写真を開いた。
少し古びた字で「秋の無花果タルト」と書かれているページ。

「次の週末、作ってみようかな」

口に出してみると、それが思った以上に自然だった。

タルトの時間は、思い出と向き合う時間。
忙しい日々の中で、自分を取り戻す大切なひとときだった。
そしてこれからは、その思い出を少しずつ未来に手渡す時間でもあるのかもしれない。

——また一つ、季節が巡っていく。