風の色はミントグリーン

面白い

夏が近づくと、風の中に微かにミントの香りが混じる。
それは彼女の記憶と結びついていた。

佐倉遥(さくら・はるか)は都会の喧騒に疲れ、郊外の小さな街に引っ越してきた。
職場はリモート勤務に切り替わり、必要最低限の人との関わりだけで済む。
心をすり減らすような日々を抜け出した今、彼女は初めて深く息を吸い込んだ。

引っ越し初日の夕方、窓を開け放った部屋に、ふと爽やかな香りが入り込んできた。
ふわりとした風に乗って届いたその匂いは、遥が子供のころ、祖母の家で嗅いだミントの香りだった。

「……あの庭の、ミント。」

祖母の家には、小さなハーブガーデンがあり、ミントが群生していた。
夏の午後、祖母が淹れてくれたミントティーの味も、冷たい湿布のように痛みを和らげた。

懐かしさに誘われて、翌日遥は近所を歩いてみることにした。
すると数分も歩かないうちに、小さなカフェを見つけた。
木造の外観に、手書きの看板。
「Herb&Cafe Wind」。引き寄せられるように中へ入ると、そこにはミントの香りが満ちていた。

「いらっしゃいませ。初めてですよね?」

笑顔で声をかけてきたのは、カフェの店主らしき男性だった。
柔らかい雰囲気と落ち着いた声が心地よい。

「すごくいい匂いがして……ミントですか?」

「ええ、自家製のミントを乾燥させてるんです。お好きですか?」

遥はうなずいた。
「子供のころから好きで、ちょっと特別な香りなんです。」

その日、彼女は「ミントとレモングラスのブレンドティー」を注文した。
一口飲んだ瞬間、体の奥がほぐれていくような感覚がした。
ミントの爽快さとレモングラスの穏やかさが、まるで心の隙間に優しく触れてくるようだった。

それから遥は、毎週金曜日の午後にそのカフェへ通うようになった。
店主の名は相馬智(そうま・さとし)。
元は都内でIT関係の仕事をしていたが、心身を壊し、療養のためにこの地に戻ってきたという。
彼もまた、「癒し」を求めてここに辿り着いた一人だった。

「ミントって、強すぎず、弱すぎず……ちょうどいいんですよね。心に風を通す、っていうか。」

ある日、そう言った遥の言葉に、智は静かにうなずいた。

「僕も、ミントに助けられたんです。」

智はこのカフェを開く前、しばらく植物療法を学んでいたらしい。
ハーブは薬ではないが、香りや味で心を整える力がある。
智のブレンドティーには、彼自身の経験と優しさが込められていた。

やがて夏が深まり、ミントの葉もその香りを濃くしていった。

ある蒸し暑い午後、カフェに向かう途中でにわか雨に降られた遥は、びしょ濡れになって店にたどり着いた。
智は黙ってタオルを渡し、温かいミントティーを出してくれた。

「こういう日こそ、ミントの出番ですね。」

湯気の中から立ち上る香りに、遥はふっと笑った。

「本当に……風が通ったみたい。」

その言葉は、ふたりの心をそっとつなぐきっかけになった。

翌週、智が店の裏庭に案内してくれた。
そこにはミントが一面に茂っていた。

「よかったら、この庭、一緒に育てていきませんか?」

遥は驚いた顔をしたあと、ゆっくりとうなずいた。

「いいんですか?」

「ミントが好きな人に、風の手入れをお願いしたいんです。」

それは不器用な告白のようにも聞こえたが、遥の胸には穏やかな風が吹き抜けていた。

香りは、記憶とつながり、人を導く。
そして遥は今、ミントの風の中で、新しい日々を静かに歩きはじめている。