陽が落ちかけた午後、古い商店街の角にひっそりと佇む和菓子屋「くるみ堂」には、今日もひとりの男が足を運んだ。
彼の名は水野誠(みずの まこと)、五十五歳。
勤めていた出版社を早期退職してから、毎日のようにこの店に立ち寄るようになった。
目的はただひとつ、店主の手作り黒糖まんじゅうを買うためだった。
誠は昔から黒糖が好きだった。
幼いころ、沖縄出身の祖母が送ってくれる黒糖のかけらを、宝物のように舐めていた記憶がある。
茶色く不格好な塊の中に、彼はどこか人の温もりを感じていた。
出版社で働いていたころは、甘いものなど見向きもしなかった。
締切に追われ、企画に追われ、眠る暇もない日々の中で、黒糖の存在は頭の片隅にすらなかった。
ところがある日、退職を目前に控えた誠は、偶然立ち寄った「くるみ堂」で黒糖まんじゅうを買ってみた。
懐かしい香りに惹かれたのか、それとも、仕事一筋だった人生にぽっかりと空いた隙間を埋めたかったのか。
理由はもうよく覚えていない。
一口かじると、ふわりと広がるやさしい甘さ。
こし餡と黒糖の皮が舌の上で溶け合い、幼いころの縁側や祖母の笑顔が、まるで幻のように蘇った。
「毎日食べたいな」と誠は思った。
それからというもの、誠は日課のように店に通い、黒糖まんじゅうをひとつだけ買って帰るようになった。
ある日、店主のくるみさんが話しかけてきた。
「いつもありがとうございます。黒糖、お好きなんですか?」
白髪混じりの小柄な女性は、まるで昔の知り合いのように自然な笑顔を浮かべていた。
「ええ、子どものころからなんですよ。祖母が沖縄出身で、よく黒糖を送ってくれて。あの頃の味を、あなたのまんじゅうが思い出させてくれたんです」
そう言うと、くるみさんは目を細めた。
「それはうれしいですね。うちの黒糖は八重山の農家から取り寄せてるんです。ミネラルが多くて、まろやかなんですよ」
「八重山……そうか、祖母の故郷も石垣島でした。だからかもしれません」
それから誠とくるみさんは、毎日のように何気ない会話を交わすようになった。
黒糖の産地の話、まんじゅうの作り方、そして祖母の思い出――。
ある日、誠は思い切って提案した。
「僕にも、黒糖まんじゅう、作らせてもらえませんか?」
くるみさんは目を丸くしたあと、にっこりと笑って言った。
「もちろんです。でも、生地をこねるのは力がいりますよ」
それから、誠の午後は一変した。
まんじゅうを買いに来るだけだったのが、厨房の奥でくるみさんと並んで粉を練り、黒糖を煮詰め、手のひらで丸める日々へと変わっていった。
慣れない手つきながらも、誠はその時間が楽しくてしかたなかった。
黒糖の甘い香りに包まれながら、人生の別の一歩を踏み出している気がした。
数か月後、くるみ堂のショーケースに新しい札が置かれた。
「水野さんの黒糖まんじゅう」
それは、彼が考案した黒糖と黒豆を練り込んだ新しい味だった。
噛むとカリッとした黒豆の食感がアクセントになり、常連客たちからも好評だった。
誠は、その札を見つめながら思った。
――ああ、自分はまだ何かを始められるんだな。
くるみさんは、そんな彼に静かに笑いかける。
「黒糖って、不思議ですね。時間を溶かすみたいに、いろんなことをやわらかくしてくれる」
誠は頷いた。
「ええ、本当に。過去も、未来も、少し甘くなる気がします」
その日も、店には黒糖の香りがやさしく漂っていた。