ソースの香り

食べ物

広島市内の路地裏に、ひっそりと佇むお好み焼き屋「こいのぼり」がある。
木造の店構えに、のれんが揺れ、近づけば香ばしいソースと鉄板の音が鼻をくすぐる。
そこには、店主の八重(やえ)という女性が一人で店を切り盛りしていた。

八重は、若い頃にこの店を父から受け継いだ。
かつては親子二人で鉄板に向かっていたが、父が亡くなってからは一人でその味を守っている。
八重にとって、お好み焼きは「家族の象徴」であり、鉄板の上には思い出が詰まっていた。

八重のお好み焼きは、広島風。
薄い生地に山盛りのキャベツ、もやし、豚バラ、そば、そして卵。
その上に特製のソースをたっぷり塗り、青のりと削り節をかける。
焼き上がると、香ばしさと甘辛さが混ざり合って、誰もが笑顔になる味だった。

ある春の日、店にひとりの青年がふらりとやってきた。
背が高く、少し猫背。顔立ちはどこか八重の父に似ていた。

「すみません、一枚お願いできますか」

彼は控えめな声で言った。
注文を聞いた八重は、無言で鉄板に向かい、いつものように生地を流し、キャベツを山のように積み、手際よく焼いていく。
その様子をじっと見つめる青年の目が、どこか懐かしさを湛えているようで、八重はふと気になった。

「どこから来たの?」

「東京です。父が広島出身で、昔ここで食べたお好み焼きの話をよくしてたんです」

八重の手が止まった。
「……名前は?」

「斎藤徹といいます。父の名前は斎藤正一。亡くなりましたけど」

その名前を聞いて、八重の胸がざわついた。
かつて父がよく口にしていた「東京の学生時代の親友」。
それが正一という名前だった。
父は広島の大学で一人暮らしをしていた頃、よく彼と一緒にこの店で食べたと語っていた。

「もしかして……あの子が」

焼き上がったお好み焼きを目の前に出しながら、八重はそっと聞いた。

「お父さんは……ここの味の話を、どんなふうに?」

青年は少し笑って、答えた。

「“あの味は特別だった”って。『食べると、まるで自分の故郷がそこにあるような気がした』って。今でも思い出すと涙が出るんだって。だから僕も、どうしても食べてみたくて」

八重の目にじわりと涙が浮かんだ。
彼女は父の味を守り続けてきた。
でも、それを「受け取ってくれる人」がいたことに、初めて気づいたのだ。

「お父さん、よくここに来てたのよ。うちの父と一緒にね。あの頃は、ふたりで競うように焼いてたわ」

青年は、箸を止めて顔を上げた。

「そうだったんですね……知らなかった。なんだか、やっと父に会えた気がします」

店内に静かな時間が流れた。
鉄板からは、まだほんのりと熱が立ち上っている。
八重は鉄板に向かいながら、小さく微笑んだ。

「また来なさい。今度は、君に焼き方を教えてあげる」

青年の顔が明るくなった。

「……いいんですか?」

「ええ、あなたのお父さんの思い出を、次につなぐなら。ここの味も、まだ旅を続けられるからね」

「こいのぼり」は、その日から新しい風を受けて、ゆっくりと泳ぎ始めた。
鉄板の上には、これまでの時間と、これからの物語が、香ばしい音とともに焼き上がっていく――。