小さな町のはずれに、「糸の記憶」という名前の古びた手芸店がある。
店主は七十を越えた女性、佐和子さん。
白髪を後ろにまとめ、淡い花柄のエプロンをつけた彼女は、いつも店の奥で静かにパッチワークを縫っている。
佐和子さんのパッチワークには、不思議なあたたかさがあった。
どれも布の色使いが優しく、模様にはどこか物語のような流れがある。
常連客たちは口々に言う。
「佐和子さんのキルトには、思い出が縫い込まれてるみたいね」と。
実際、それはあながち間違いではなかった。
佐和子さんがパッチワークを始めたのは、三十歳のとき。
夫の転勤で各地を転々とし、知り合いもいない土地でひとり過ごす時間が多かった。
ある日、引越しのダンボールの中から、色褪せた子どもの服の切れ端が出てきた。
長男が三歳のときに着ていたシャツの袖。
懐かしさと寂しさが入り混じり、ふとその布を手に取り、針を通したのが始まりだった。
そこから佐和子さんは、着なくなった家族の服や、古いカーテン、ハンカチなどを少しずつ縫い合わせていった。
四角や三角、時には花の形に切った布たちは、彼女の記憶と重なって美しい模様になっていった。
「これは、あの夏に沖縄に行ったときのワンピースの布。ほら、台風で飛行機が遅れてさ、空港でアイスを三つも食べたのよ」
そんなふうに、ひとつひとつのピースに、物語が宿っていた。
やがて子どもたちは成長し、それぞれの家庭を持って巣立っていった。
夫も定年を迎え、二人で過ごす時間が増えた。
だが数年前、夫は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
それからというもの、佐和子さんの作るパッチワークには、ますます深い色が増えた。
落ち着いた藍色、鈍い赤、そして柔らかなクリーム色。
それはまるで、心の中に積もった年月を一枚ずつめくっていくようだった。
ある日、小さな女の子が母親と一緒に店にやってきた。
「おばあちゃん、これ、なあに?」
女の子が指さしたのは、壁に飾られた一枚の大きなキルトだった。
色とりどりのピースが、星のように配置されている。
「これはね、『夜空の旅』っていうのよ。ひとつひとつの星が、私の思い出なの」
佐和子さんは、針を休めて優しく答えた。
「思い出?」
「ええ。たとえばこの青い星はね、昔、家族で見た流星群の夜。誰も願いごとを言えなかったけど、みんな笑ってたの。…この金色の星は、結婚したときの着物の端切れ。嬉しくて、でもちょっと怖かった」
女の子は目を輝かせた。
「すごい! わたしもつくりたい!」
その言葉をきっかけに、佐和子さんの店には、地元の子どもたちや若い母親たちが集まるようになった。
最初は簡単なコースターから始まり、やがてそれぞれの「思い出キルト」を作るワークショップが開かれるようになった。
「大切なのは、上手に縫うことじゃないのよ。どんな気持ちでその布を選んだか、どんな場面を覚えていたいか。それがいちばん大事なの」
佐和子さんは、そう教える。
ある日、彼女の長男が久しぶりに訪ねてきた。
東京で働く彼は、仕事に追われ、母の店に来るのも何年ぶりかだった。
「母さん、これ、まだあったんだ」
息子が手にしたのは、彼が五歳のときのシャツのピースが縫い込まれたクッションカバー。
「ええ、あのとき、あなたがカブトムシを追いかけて転んだでしょ? シャツが破れちゃってね。でも、その笑顔が忘れられなくて、ずっと取っておいたの」
息子は照れくさそうに笑い、ふと真顔になった。
「…母さん、ありがとう。なんか、やっとわかった気がする。あなたが大事にしてきたもの」
佐和子さんは、静かにうなずいた。
パッチワークとは、ただ布を継ぎ合わせることではない。
失われた時間を縫いとめ、記憶を形にする営みだった。
その夜、店の灯りがいつもより長く灯っていた。
針の音が、静かに静かに響いていた。
まるで、誰かの思い出を、そっとすくいあげるように。