マンゴー色の記憶

食べ物

南風が吹き抜ける午後、古びた商店街の一角にある果物店「みなみ屋」で、ひとりの女性が立ち止まった。

「今年も、もう入ってきたのね」

彼女の目は、店先に並べられた艶やかなマンゴーに釘づけだった。

女性の名は早苗(さなえ)、五十三歳。
近くの図書館で働く司書で、毎年この季節になると「みなみ屋」の前で足を止めるのが恒例となっていた。
マンゴーが好きで好きでたまらないのだ。
甘さ、香り、滑らかな舌ざわり、そのすべてが彼女にとっては夏の訪れを告げる宝物だった。

「今年は宮崎のやつが早いね」

店主の政雄が笑顔で声をかける。

「ほんと、もうそんな季節ね」

早苗は手に取ったマンゴーを、まるで赤ん坊でも抱くかのように大事そうに撫でた。
1個2,800円。
少し高い。
でも迷いはない。

「あの子にも食べさせてあげたいわねぇ」

政雄はその言葉に一瞬、黙った。

「あの子って……娘さんのこと?」

「ええ。志穂が小さい頃、一緒に食べたマンゴーの味を、今でも忘れられないの」

志穂。
早苗が二十代で出産し、女手一つで育てた娘だった。
大学進学を機に東京へ行き、数年前にそのまま結婚して家を出た。
たまに帰省はするものの、最近は仕事と育児で忙しいらしく、連絡もまばらになっていた。

「志穂が小学生のときね、学校で作文を書いたの。『お母さんの好きなもの』っていう題で。で、その中に『お母さんはマンゴーを見ると必ず笑う』って書いてたのよ」

早苗はそう言って目を細めた。

「覚えてる? あの年、台風で果物が高くて、でもどうしても買いたくて、私が小銭を握りしめて、ここに来たのよ」

「そりゃ覚えてるさ。あのとき、最後のひとつをおまけしたんだ」

二人は顔を見合わせて笑った。

その夜、早苗はマンゴーを半分に割り、皮をひっくり返して果肉を立て、もう半分は薄くスライスして冷やした。
ひと口かじると、懐かしい南国の香りが鼻を抜け、甘さが舌に広がった。

ふいに、スマートフォンが震えた。画面には「志穂」の名前。

「もしもし?」

「お母さん、久しぶり。あのね、来週そっちに帰ろうと思ってて……娘と一緒に。初めての新幹線よ」

「まあ……! 本当? うれしい……!」

「それでね、お願いがあるんだけど、マンゴー食べたいな。お母さんの切ったやつ」

早苗の胸に、じんわりと熱いものがこみあげてきた。

「わかった。とびきりのを用意しておくわ」

電話を切ったあと、早苗は窓を開けた。
風に乗って、どこか懐かしい匂いがした。
ふと、娘と二人で食べたあの夏の日を思い出す。
果汁が垂れないようにと苦心して切ったあのマンゴー。
黄色く染まった指先を、笑いながら志穂がなめた姿。

「……やっぱり、夏はマンゴーだわね」

つぶやきながら、早苗はそっとマンゴーの皮をむき、明日の朝に志穂に送る荷物の箱に、もうひとつ買っておいた完熟のそれをそっと詰めた。

翌週、娘と孫がやってきた。

早苗はマンゴーを三つに切り分けて、まるで儀式のように皿に盛った。
志穂も、そして小さな孫娘も、ひと口食べると目を見開き、声を揃えて言った。

「甘い!」

早苗は静かに頷いた。

ああ、この味。
この時間。
この笑顔。

それこそが、早苗にとっての「好き」という気持ちのすべてだった。