白い月、チーズの香り

面白い

陽子は都会の喧騒から逃れるように、静かな港町に移り住んだ。
背中を押したのは、祖母の遺した古い家と、焼き菓子づくりへの飽くなき情熱だった。
会社勤めに疲れたある日、陽子は祖母の古いレシピノートを読み返しながら、ふと決意した。

「チーズケーキだけのカフェ、やってみようか」

祖母は昔、家の裏庭で小さな喫茶店をしていたという。
陽子の記憶には、窓辺に差し込む午後の日差しと、しっとりと甘いベイクドチーズケーキの味が残っている。

物件探しは必要なかった。
祖母の家を改装して、そのままカフェにすることにした。
壁を塗り替え、床を磨き、木製のカウンターを自作で仕上げる。
何度も手を切ったが、その傷さえも新しい人生の証のように思えた。

店の名前は《白い月》。
満月のように丸くて優しい、祖母のチーズケーキを思い出してつけた。

プレオープンの日、最初の客は近所のパン屋の奥さんだった。
「チーズケーキだけなんて、思い切ったわねぇ」と笑いながら、濃厚なベイクドをひと口。
すぐに目を見開いた。

「……こんなにしっとりしてるの、初めて」

口コミは、港の風に乗って広がった。
漁師町の年配夫婦、海沿いの小学校の先生、観光客に連れられた若者たち。
人々が次々と《白い月》にやってきては、それぞれにお気に入りのチーズケーキを見つけていった。

陽子は日々、改良を重ねた。
ベイクド、レア、バスク風、抹茶風味に、ラム酒香る大人の一品。
季節ごとに旬の果物と合わせ、チーズケーキの可能性を広げていった。

ある日、若い女性客がひとり、泣きながらケーキを食べていた。
気になって声をかけると、彼女はぽつりと語った。

「失恋したんです。でも、こんなに優しい味があるなら、明日も生きてみようって思えました」

陽子は微笑んだ。
「それなら、このケーキは成功ですね」

その日から、陽子はカフェを「心の応急処置室」だと思うようになった。
派手な演出も、流行りの装飾もない。
でも、ここには、誰かの気持ちをそっと包むチーズケーキがある。

秋になると、港町は観光シーズンを迎え、店はさらに忙しくなった。
そんな中、陽子は店の隅に、祖母の写真を飾った。
チーズケーキを焼く自分の姿を、どこかで見守っていてほしかったのだ。

そしてある夜、陽子は夢を見た。

祖母が、昔のキッチンでケーキを焼いている。
若き日の祖母は、振り返ってにっこりと笑い、「よくやってるね、陽子」と言った。

目が覚めると、朝の光がキッチンを包んでいた。
オーブンの前で、陽子は小さくつぶやいた。

「ありがとう、おばあちゃん」

港の風は今日も穏やかに吹いている。
《白い月》は静かに、人々の心を癒している。
チーズケーキの香りは、町の路地裏まで届き、小さな幸せの種をまき続けていた。