「これは、おばあちゃんの味だ」
そう呟いて、清水遥(しみず・はるか)は、ひと切れのごぼうの漬物を口に運んだ。
ポリッという歯ごたえとともに、醤油とみりん、そしてかすかに香る山椒の風味が広がる。
子供のころから何度も味わった、懐かしい味。
けれど、今日は少しだけ、しょっぱさが胸にしみた。
遥は東京で働く会社員だ。
毎日満員電車に揺られ、PCと電話に囲まれて過ごす日々。
昼はコンビニ、夜は外食。便利ではあるけれど、どこか物足りない。
そんな生活をしていたある日、田舎で一人暮らしをしていた祖母が亡くなったという連絡が入った。
祖母の家は、山間の小さな町にある古い木造の平屋だった。
幼いころ、夏休みや冬休みに訪れては、庭の畑を手伝い、夕方には祖母の手作りの漬物をおやつ代わりにかじった。
中でも、祖母特製のごぼうの漬物が遥は大好きだった。
コリコリとした歯ごたえ、優しい味つけ、そして何より、祖母の温かな眼差しと一緒に出されたその漬物には、家族のぬくもりが詰まっていた。
葬儀が終わり、家を整理していると、台所の棚の奥から、ひとつの古びたノートが出てきた。
そこには、達筆な字で「漬物の記録」と書かれていた。
中を開くと、胡瓜、茄子、白菜、そしてごぼう——数十年にわたる漬物のレシピが綴られていた。
「これが、おばあちゃんの味の秘密か…」
ページの一つ一つに、祖母のこだわりや試行錯誤のメモが書き込まれている。
「塩分はこれでちょうどよかった」「この年は寒かったので発酵が遅れた」など、まるで祖母がそこにいて話しかけてくるようだった。
遥は東京に戻ると、休日のたびにそのレシピをもとに漬物作りを始めた。
初めて漬けたごぼうは、どうにも味が決まらなかった。
塩辛すぎたり、味が染みなかったり。
それでも、何度も繰り返すうちに、少しずつ、祖母の味に近づいていった。
冷蔵庫に入れて一晩おく。
次の日の朝、味見をして「うん、今日はいい感じ」と頷く時間は、忙しない日常の中で、ほっと心が緩むひとときになった。
ある日、同僚の佐藤が「最近、なんか元気そうだね」と声をかけてきた。
「うん、漬物始めたんだ」
「……え?」
「いや、ほんと。ごぼうの漬物とか、いろいろ。手間かかるけど楽しくて」
遥がそう言うと、佐藤は笑いながら「変わってるけど、いいね」と言った。
それからしばらくして、遥は思い切って近所の小さなマルシェに手作りの漬物を出品してみた。
祖母の味を受け継いだごぼうの漬物には、思いがけず多くの人が興味を示し、リピーターも現れた。
「懐かしい味」「子供のころを思い出す」という声に、遥の胸はあたたかくなった。
祖母が遺してくれたものは、レシピ以上のものだった。
時間をかけることの尊さ、味に込める想い、そして何より、人と人をつなぐ力。
今日も遥は、キッチンに立ってごぼうの皮をむく。
まるで祖母がそばで見ているかのように。
ゆっくりと、丁寧に。そして、やさしく漬け込むのだ。
未来の誰かが、この味で大切な人を思い出してくれるように。