昼下がりの商店街。古びた時計屋の隣に、赤いのれんがひらひらとはためいている。
店の名前は「栄楽亭」。
メニューの一番上には、堂々と「特製ジャージャー麺」の文字が書かれている。
佐伯ひろし、五十五歳。
商社勤めを早期退職してからは、週に三回、この「栄楽亭」に通うのが日課になっている。
きっかけは些細なことだった。
会社帰りに偶然入ったこの店で、出てきたジャージャー麺の味が、学生時代に下宿の近くで食べていた一杯を思い出させたのだ。
「ひろしさん、いつものね」
厨房から声をかけてくるのは、店主の林さん。
台湾出身の五十代の女性で、切れのいい関西弁を話す。
最初は違和感があったが、今ではそのギャップすら心地よい。
ひろしはいつもの席、窓際の二人がけテーブルに腰を下ろす。
湯気の立つジャージャー麺が運ばれてくる。
黒くて艶のある肉味噌が、もっちりとした中太麺の上にどっさりと乗っている。
きゅうりの細切り、白髪ねぎ、ちょっぴりの香酢。すべてが完璧だ。
箸を入れる前に、まず目で楽しむ。
それから全体をぐるぐるとよく混ぜるのが、ひろし流の作法。
肉味噌の濃厚さ、キュウリの清涼感、そこに絡む麺の弾力。
口に入れた瞬間、思わず目を閉じた。
「変わらんなあ……」
味に変化がないのが嬉しい。
時代も自分の立場も変わったが、この一杯だけは昔のままだ。
林さんがひょいと椅子を引いて向かいに座る。
「ひろしさん、また例の話してたんやろ? 昔の下宿の近くの味ってやつ」
ひろしは笑って頷いた。
「そうそう。あの頃のこと思い出すよ。家賃二万八千円のアパート。風呂なし。駅前の食堂でこの味を知って、週三で通った。貧乏だったけど、あの頃は幸せだったな」
「今も幸せちゃうん?」
「うーん……どうだろうな」
定年後、何かが足りなかった。
仕事に明け暮れた人生だったが、振り返れば、心に残るものが少ない。
ただ、この店に来て、麺を啜っていると、すべてが報われた気がするのだ。
「実はさ、俺、料理勉強してるんだよ。ジャージャー麺、自分でも作ってみたくて」
林さんは目を丸くした。
「おお、それは意外やな。ええやん、ええやん。秘伝の味、教えたろか?」
「マジで? でも俺の舌、まだまだ未熟だよ」
「舌は育つ。記憶も育つ。味はね、自分の人生にしがみついてるもんや。ほら、ひろしさん、あの下宿の時代を、今も麺で思い出してるやろ? それってもう、料理人の才能あるんちゃう?」
林さんの言葉は、ひろしの胸にじんわりと染みた。
次の週、ひろしはエプロン姿で「栄楽亭」の厨房に立っていた。
中華鍋の前で汗をかきながら、甜麺醤や豆板醤の分量を確かめる。
切る、炒める、味を重ねる。
理屈ではなく、記憶と感覚を頼りに。
最初の一皿は、失敗だった。
味がぼやけていた。
二皿目は塩が強すぎた。
だが三皿目で、林さんがにっこり笑った。
「これや、これ。あんたの人生の味、できてるやん」
ひろしの心に、じんわりと温かいものが広がった。
あの商店街の片隅で、定年後の男が一杯の麺に人生を重ねていく。
味覚は記憶を呼び戻し、記憶は新たな道をつくる。
ひろしにとって、ジャージャー麺はただの食べ物ではない。
それは、自分を取り戻すための、人生の再出発だった。