駅から徒歩三分、古いアパートの一階にその店はあった。
看板も出ていない。
ガラス越しに見えるのは、木のカウンターと、壁一面に並んだガラス瓶。
赤や緑、オレンジの液体が、陽の光に照らされてきらめいている。
その店「ジュース工房・あおば」の主人は、藤井蒼(ふじい あおば)、三十五歳。
無口で、いつも淡々とした態度だが、常連たちは彼の作る野菜ジュースの虜だった。
「今日のは、ちょっと苦みがあるけど、肝臓にいいんです」
差し出された深い緑の一杯を、近所の書店店主が嬉しそうに受け取る。
小松菜、セロリ、青じそにレモン。
蜂蜜をほんの少し加えるのが、蒼の流儀だった。
彼が野菜ジュースに取り憑かれたのは、十年前のことだった。
当時、彼は大手食品メーカーの研究職に就いていた。
研究室では毎日、糖分、保存料、香料…とにかく“飲みやすさ”や“売れやすさ”を最優先にしたレシピを開発していた。
効率重視、利益重視の世界に、蒼は次第に疲弊していった。
そんなある日、母親が倒れた。
原因は生活習慣病だった。
病室のベッドで、母は弱々しく笑いながら言った。
「コンビニのジュースばっかり飲んでたわ。手作りの、体にいいやつが飲みたかったのに」
その言葉が胸に刺さった。
彼は退職を決意し、野菜ソムリエの資格を取ると、全国の農家を巡り、野菜と向き合う日々を始めた。
「野菜は、正直です。育て方で、味も栄養も、まったく変わりますから」
店を開いたのは三年前。
こだわりの無農薬野菜を使い、毎朝仕入れた素材を見て、その日ごとのブレンドを決める。
レシピは日替わり、注文は「おまかせ」の一択。
客がどういう体調か、どんな気分かを聞いて、それに合った一杯を作る。
ある日、スーツ姿の若い女性がやって来た。
やや疲れた顔でカウンターに腰を下ろす。
「なんだか、最近やる気が出なくて……」
蒼は頷くと、冷蔵庫からニンジン、ビーツ、トマトを取り出した。
そこにリンゴを少し加え、絞り器にかける。
コップに注がれた液体は、深紅だった。
「これは、血の巡りを良くする野菜たちです。ビーツは“食べる輸血”って呼ばれてるんですよ」
女性は口をつけて、目を見開いた。
「おいしい……甘いのに、深い。体が目を覚ましたみたい」
しばらく通ううちに、彼女の表情は明るくなった。
蒼は何も言わなかったが、彼女が希望部署への異動に成功したことを、常連客との会話で知った。
蒼の作るジュースは、飲みやすさより、誠実さを選ぶ。
苦味もえぐみも、すべてがその人の今に寄り添う処方箋なのだ。
冬が近づいたある日、ガラス戸を開けて一人の老人が入ってきた。
「この辺に、体にいいジュースを出す若者がいると聞いてね」
杖をついたその人は、かつての蒼の恩師だった。
退職後、糖尿病を患い、食事制限の毎日だという。
蒼は静かに微笑み、ほうれん草、カリフラワー、ショウガを取り出した。
ほんの少しだけ甘味にラ・フランスを加える。
「これは、血糖値の上昇を抑えるブレンドです」
恩師はゆっくりと口に運び、しばらく目を閉じていた。
そして、目を細めて言った。
「君の味だ。誠実な、でもどこか情熱のある味だ」
その日、蒼は初めて、恩師に向かって頭を下げた。
「先生、僕はやっと、人の役に立てるものを作れた気がします」
カウンターの奥には、今日も瓶が並ぶ。
色とりどりの命が、静かに誰かを待っている。
それはただのジュースではない。
蒼の思いと、野菜たちの力が詰まった、“希望”の一杯なのだ。