雪の舞う町、北ノ沢に住む一人の男がいた。
名は白崎仁。年齢は四十を越えていたが、彼には少年のような目の輝きがあった。
それは、「氷」がもたらすものだった。
白崎は地元の高校で物理の教師をしていた。
真面目で口数は少ないが、生徒からの信頼は厚かった。
ただ、ひとつだけ人と違っていた。
彼は氷を心から愛していたのだ。
水が凍り、形を変え、光を受けてきらめく瞬間。
それは彼にとって、宇宙の神秘を覗き見るような感動だった。
彼の自宅の庭には、大きな冷却室があった。
元々は古びた倉庫だったが、彼はそこを改装し、温度と湿度を調整できる本格的な氷の制作室へと変えた。
中には様々な形の氷が並んでいた。
幾何学模様の氷、花を閉じ込めた氷、透き通った結晶の塔のような氷——それらは、彼の手によって一つ一つ丁寧に作られた作品だった。
「氷は、時間を彫る彫刻だ」と、白崎はかつてインタビューで語ったことがある。
冷却、凝固、そしてゆっくりとした崩壊——氷は生まれた瞬間から、死へ向かって静かに溶けていく。
その運命に抗わず、むしろ美しさとして受け入れることに、彼はこの上ない魅力を感じていた。
ある年の冬、北ノ沢で「氷の芸術展」が開催されることになった。
町の商工会が主催する初のイベントで、雪国ならではの文化を発信しようという試みだった。
実行委員会の一人が、白崎に出展を打診した。
「あなたの氷を、町の人たちにも見せてほしいんです」
白崎は迷った。
氷は時間と共に溶ける。
展示に耐えうるか分からなかったし、自分の“静かな趣味”を公にすることにも抵抗があった。
だが、生徒の一人がこう言った。
「先生、氷の話をしてる時の目、すごく楽しそうでしたよ。私、それをみんなにも見せたい」
その言葉に背中を押され、白崎は出展を決意した。
展示当日。
彼が用意したのは、高さ2メートルの氷の柱だった。
柱の中には、北ノ沢の四季を象徴するもの——桜の花びら、青い山の風景を写したフィルム、紅葉したモミジ、そして雪の結晶を模した銀粉——が層のように閉じ込められていた。
「これは、僕の町への愛です」
静かに語る白崎の言葉に、会場はしんと静まり返った。
氷は太陽の光を受け、七色に光っていた。
まるで、時間が止まったような静寂。
その瞬間、誰もが「氷はただ冷たいだけではない」と理解した。
展示は大成功だった。
新聞に取り上げられ、彼のもとには全国から氷の注文が舞い込んだ。
だが白崎は、それらを丁重に断った。
氷は、量産するものではない。
誰かの特別な一瞬を彩る、儚くも尊い存在だと彼は思っていた。
冬が過ぎ、春が来るころ——白崎はまた、自宅の冷却室で新たな氷を作っていた。
それは、卒業する教え子たちへの贈り物だった。
小さな氷のキューブの中に、彼らが残した言葉を小さく印刷した紙を閉じ込めていた。
「ありがとう」「またね」「がんばれよ」そんな文字が、静かな氷の中で、凛と輝いていた。
白崎仁は思った。
氷は消えていく。
だが、そこに込めた想いは、決して溶けない。