静かな港町、蒼崎。
潮の香りが町の隅々に染み込んだその場所に、一軒の小さなチョコパイ専門店があった。
店の名前は「ルナ・パイ」。
店主は三十代半ばの女性、木村千紗。
もともとは都内の広告会社で働いていたが、ある日突然、仕事も家もすべてを手放し、この町にやってきた。
彼女がこの町を選んだ理由は誰も知らなかったが、本人はこう答えていた。
「なんとなく、海が見たくなったんです」
彼女がチョコパイを作るようになったのは、もっと前の話だ。
千紗がまだ会社勤めをしていた頃、母を病気で亡くした。
母は料理が得意で、とくにお菓子作りが好きだった。
千紗が落ち込んでいたある日、母の古いレシピ帳がふと目に入った。
ページの隅に、少しシミのついた紙が挟まれていた。
「チョコパイ――千紗が好きだったあれ。もっと上手に作れるようになりたい」
それを見た瞬間、千紗の中で何かがはじけた。
母の味をもう一度作ろう、と思った。
そして何度も試作を重ね、ついに「母の味」に近づけた日、涙が止まらなかった。
その味を誰かに届けたい。
そんな気持ちが芽生え始め、やがて会社を辞め、小さな町でチョコパイ屋を開く決意をしたのだった。
最初の半年は、正直厳しかった。
観光地でもない町でチョコパイなど売れるのかと、地元の人にも言われた。
しかし千紗は、決して焦らなかった。
毎朝早くから生地をこね、チョコレートを溶かし、ひとつひとつ丁寧に作り続けた。
まるで母に見守られているかのように。
ある日、町の小学生が店に入ってきた。
「お母さんが病院にいるから、お見舞いにチョコパイ買いたいんだけど、お金がちょっとしかないの」
彼が差し出したのは、ポケットに入れていたらしいくしゃくしゃの小銭。
千紗は少し笑ってから、小さな箱にチョコパイを三つ入れて手渡した。
「これは特別なお見舞いセット。今日だけのね」
子どもは目を輝かせて走っていった。
その出来事が、町に広まった。
千紗のチョコパイは、ただのスイーツではなく、誰かの心を温める「贈り物」だったのだ。
やがて町の人たちは、誕生日や記念日、ちょっとしたお礼に「ルナ・パイ」を選ぶようになった。
春になると、観光客もちらほら訪れるようになった。
SNSで評判になったらしく、都会からわざわざ足を運ぶ人もいた。
千紗はあえてメニューを増やさなかった。
常に三種類のチョコパイだけ。
──「お母さんが本当に上手く作れたのは、この3つだけだったんです」
それでも、客足は絶えなかった。
むしろ、そのこだわりが店の魅力になっていた。
ある夜、閉店作業をしていると、年配の女性が店の外に立っていた。
「チョコパイ、まだありますか?」
千紗は驚いた。
もう電気も消していたし、看板も裏返していたから、店が開いているとは思わなかったはずだ。
「ひとつだけなら、あります」
そう言って奥から取り出した最後のチョコパイを手渡すと、女性はそっと包みを開け、香りを嗅いでから言った。
「懐かしい匂いね。……私も昔、娘に作っていたの。だけど、上手くいかなかった。あなたのチョコパイ、きっと誰かを救ってるわよ」
その言葉が、千紗の胸に深く刺さった。
チョコパイは、単なるお菓子じゃない。
人と人をつなぐ記憶であり、ぬくもりであり、未来への種だ。
今日も店の前には、海風にゆれる手描きの黒板が立っている。
そこには、こう書かれている。
「ようこそ、月のチョコパイ屋へ。ひと口で、あなたの大切な誰かを思い出しますように」
千紗はエプロンのひもをきゅっと結んで、オーブンの前に立った。
朝陽が差し込むキッチンに、また甘い香りが満ちていく。