瀬戸内海に面した小さな町、鏡島。
この町には代々続く醤油蔵「海鳴(うみなり)」がある。
創業は江戸末期。
五代目当主の野見山達郎(のみやま たつろう)は、七十を越えてなお、毎朝五時に蔵へ足を運ぶのが日課だった。
海鳴の看板商品は、牡蠣から旨味を抽出して仕込む「牡蠣醤油」。
町の者はもちろん、県外からも買いにくるほどの人気だ。
しかし、その味を守ってきたのは、達郎の頑固で繊細な舌と、自然の摂理を尊ぶ精神だった。
ある冬の日、東京から帰省した孫の涼介が蔵にやってきた。
大学を出て商社に勤めていたが、都会の喧騒に疲れ、ふと思い立ってふるさとの空気を吸いに来たのだ。
「じいちゃん、まだ毎朝やってんの?」
「当たり前じゃ。醤油はな、毎日と向き合わにゃ、すねるんじゃ」
そう言って達郎は笑った。
涼介は手をポケットにつっこんだまま、蔵の中の古びた樽を眺めた。
空気は冷たく、潮の香りがかすかに漂っている。
「この匂い、懐かしいな」
「ほうか。おまえがまだ小さかった頃、よう連れてきとったからの」
蔵の奥に進むと、大きな木桶が並び、あたりには醤油が発酵する甘く濃密な匂いが充満していた。
その一角に、ひときわ丁寧に手入れされた樽があった。
「これが牡蠣醤油の仕込み桶じゃ」
涼介は興味深げに近づいた。
「牡蠣って、どこで使うん?」
「この時期だけ水揚げされる牡蠣を煮出して、その煮汁を醤油の麹に加える。ほれ、これは今朝とったばかりの牡蠣じゃ」
達郎は木箱の蓋を開けた。
中には、ぷっくりと太った牡蠣がぎっしりと並んでいる。
その銀白色の殻には、瀬戸の海の時間が詰まっているようだった。
「じいちゃん。俺さ、会社辞めてきたんだ」
その言葉に達郎の手が止まった。
「ふん。よう言ったな」
「…怒ると思った」
「怒るか。自分で決めた道なら、歩いてみりゃええ。で、どうするんじゃ? ふらふらする気か、それとも…」
涼介は答えず、しばらく黙っていたが、やがて絞り出すように言った。
「継いでみたいんだ。じいちゃんの醤油を。牡蠣醤油を、残したい」
達郎は目を細め、ゆっくりとうなずいた。
「なら、一からじゃ。口出しはせん。やってみい」
それからの数ヶ月、涼介は修行のような日々を送った。
朝は海岸の牡蠣漁に同行し、昼は麹を混ぜ、夜は配達に出た。
最初は思うようにいかなかったが、次第に手が慣れ、舌が育ち、微かな温度や湿度の違いも分かるようになってきた。
春が来る頃、達郎は涼介に一つの提案をした。
「おまえの味を、ひとつ作ってみい。ワシのじゃなく、おまえ自身の牡蠣醤油じゃ」
涼介は驚いたが、すぐに腹をくくった。
若い感覚で、でも伝統を壊さぬように。
試行錯誤の末、彼は山椒の実をほんの少しだけ加えた「香山(こうざん)牡蠣醤油」を仕込んだ。
牡蠣のコクの奥に、ぴりりと山の香が立つ不思議な味。
初出荷の日、地元の料理屋「浜月」で、その新作が卵かけごはんとして提供された。
客の一人が一口食べて、思わず目を見開いた。
「うまい…!」
その声を聞いた涼介は、思わず涙ぐんだ。
その後ろで、達郎が静かにうなずいていた。
「よかろう。おまえの物語が、ようやく始まったな」